文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/04/14(土)

午前中は喫茶店で書く。そのあと気圧の急激な低下により頭痛がひどくずっとベッドで寝ていて調子が悪かった。わたしは気圧にとても左右される。雨の前はとくにひどい。今日は夕方から雨が降った。

夜、友人の結婚パーティへ。そこで大学時代仲のよかった友人に会った。彼女はメガバンクに勤めたのだけど、わたしが上京したとき迷わずそこの銀行で口座をつくって、彼女はわたしの勤めた出版社の手帳を使うようになるくらいには仲がよかった。

彼女には昔からよく叱られていた。なんでだっけ。よくわからないけれど。彼女の結婚パーティのときにはピンクのドレスを「ガリの色に似てる」とつぶやいてしまってめちゃ怒られた。あれはわたしが完全に悪かった。

おそらくちょっと気を抜いているんだろう。今日も目の前にあるパンを食べたら「あれっ? ここにあったパンは? うちの子のためにとってきたのにー!」と怒られたし、目の前にあるビールを飲んだら「これあたしのやん!」と怒られた。
息子が怒られるわたしを見ている。そうだよ、ママは本当はこういう感じなんだよ。
気圧に左右されて、友達に怒られて、それでいてあなたにはえらそうな顔をして、家では締め切りに怯えて小説を書いていて。

それでも好きでいてくれるんだろうか、君は。

2018/04/13(金)

【心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球】

今日柳下さんがTwitterで、免許証の裏にある「臓器提供に関する意志表明」をじっくり見てみたと言っていた。わたしも免許証を取り出して見てみた。上記がその「臓器」のリストで、臓器提供に承諾したひとは、提供したくない臓器に×をつけてくださいと書いてある。

「僕は、自分でもまだ、理由を言語化できていないのだけれども、「眼球」だけは死後も奪われたくないなって思った。死んだらそんなこと関係ないのに? なぜだろう。理由は言語化できていない。でも、心臓を取られても、目を取られたら、僕でなくなるような気がした」
この柳下さんのTweetを読んで「同感」とおもわずつぶやいた。わたしも、眼球だけは一緒に燃やしてほしい。

『100年後あなたもわたしもいない日に』には、著者であるわたしとマユミさんへの質問リストがのっていて、その中に「大切なものは何ですか?」という問いがある。
そこでわたしは「手と目」と答えた。世界を見て、書いて、読む。その行為に必要なふたつ。そのふたつは、わたしの人生とともに一緒に燃やしたいと思った。わたしだけのものだから。わたしだけのものだから、書くことができたから。だから、誰かに渡すことはできない。


長男を学童に、次男を保育園に迎えに行く。
そこに、東京に住んでいる友達の今井くんが来てくれた。フィナンシェをお土産にもって。せっかくなので家にあがってお茶を飲んでもらう。持ってきてくれたフィナンシェはとてもおいしかった。
長男が喜んで今井くんにどうぶつしょうぎをせがむ。「どうぶつしょうぎ知らんねん」と言いながらも、将棋の知識があるらしくすぐにやり方を呑み込んで長男を負かしてしまった。長男はそういうときでもニコニコしている。相手をしてもらえたこと自体が嬉しくて、ラキューやら図鑑やらを持ってきては見せる。

今井くんは、わたしに柳下さんを紹介してくれた人だ。
「土門蘭は最高にいい文章を書くんですよ」と言って。
そのときわたしのお腹には次男がいて、柳下さんはわたしの文章を一度も読んだことがなかった。今、次男はよちよち歩いていて、わたしは柳下さんの編集のもと小説を書いている。だから今井くんは、わたしの人生に転機をもたらしたひとなのだ。

次男は最初人見知りをしていやがっていたが、今井くんが抱っこしてしばらくすると、胸に頭をもたれておとなしくなった。安定感があるのかもしれない。今井くんは抱っこがうまいなと思う。


2018/04/12(木)

テープ起こしをしている。
わたしにとってインタビューとはとても身体的な行為だなと思う。話の内容が頭に残っていない。残っているのは、とても話したということだけだ。学生のころ無我夢中で友達と話したあとに、疲労感と満足感をもって「いろんなこと話したね」としか言えないように。テープ起こしは、それをまた違う自分が聞き記録していく作業。言葉の質感は懐かしいものだけれど、意味はまるではじめて出会うように新鮮だ。

昼すぎに一週間ぶりに宿へ来た。
暖かく晴れた日なので、入り口のガラス扉を開け放しておいたら、すぐにマガザンに入りたての藤本さんが来られた。鼻炎らしく鼻をしきりにすすっている。
「あれ、髪切りましたか?」
切りました、と答えると藤本さんが
「以前よりもデザイン性が高いですね」
と言った。そうですね、と言って、わたしはなんとなくキッチンに隠れる。


そのあとHOTEL SHEの金井塚さん、そして岩崎くんが来て、来月からの特集についての打ち合わせが始まった。そのときにはわたしはもうここにいない。来月には、違うものが、違うひとが、違う思想が違う言葉が違うにおいがここにある。それでもどこかにわたしの何かが染み付いているのだろう。残していったものが、ここで元気にやってくれたらと思う。金井塚さんは、『100年後あなたもわたしもいない日に』を一冊買ってくれた。

もう最近は電源を入れなくなったこたつでキーボードを打っていたら、桂さんが来てくれた。前職でよく一緒に仕事をしていた方だ。健康診断の帰りでバリウムを飲んできたらしい。それなのに苺大福を持ってきてくれた。桂さんは食べなかった。
桂さんは最近おもしろい本を読んだのだという。花粉症がひどくて途中で読めなくなってしまったのだけど、とてもおもしろかったのだそうだ。
「相対的に見て、宇宙は存在するけれど世界は存在しないらしいですよ」
いわく、世界は文脈のうえでしか存在できないらしい。
「たとえば、この苺大福。ぼくが買ってきたひと、土門さんがもらうひと」
「はい」
「そういう文脈ができて、この(と言って桂さんはこたつの上を指した)世界がはじめて存在する」
わたしはじっと苺大福の箱を見る。苺大福の箱は、保冷剤でしっとりと濡れている。苺大福は、桂さんが帰られたあとに岩崎くんと藤本さんと三人で食べた。

帰る時間になり、リュックを背負って土間に降りると、岩崎くんが
「髪切った?」
と言った。
「後頭部の髪が、なくなってる」
わたしは苦笑する。デザイン性が高いだの、後頭部の髪がなくなっているだの、男性陣のわたしに髪型に対する感想は独創的だ。

扉を開けて外に出ると、まだ日が落ちてなくて明るかった。
昼が伸びていく。すぐ夏が来る。

2018/04/11(水)

小説にタイトルをつけるのは、いつも最後の最後。
書き終わって、読み返してから、つけている。

今日、短編小説にタイトルをつけた。
タイトルをつけると、その小説が質量をもつ気がする。手のひらの中で。


そう言えば、ひとつひとつの短歌にはタイトルがない。短歌はそれそのものがタイトルでもあるのだなと思う。読んでくださった天野さんが「短歌の切実さっていいな」とおっしゃっていたのを思い出す。だからかもしれない。短歌は作品自体がタイトルであるということ。

2018/04/10(火)

森へ行った。

森のなかで寝転び、空を見た。
案内をしてくださった方が言う。
「風がふくと、まるで水面を見上げているみたいなんです」

空には細かい網のように木が葉を広げていて、風がふくとそれらがゆらゆらと揺れてうつくしい藻のようだった。小さな虫がぱらぱらと、光を閉じ込めた気泡のように浮かんでいる。

わたしは息を吸って吐き、目を閉じる。
地面があたたかい。やわらかくて、背中から沈み込んでいく。


2018/04/09(月)

柿次郎さんにインタビューをした。

初めてインタビューというのをしたのは19のときだけれど、気づいたら10年以上続けてきた。でも、一向にコツが掴めないし、うまくできない。前日からよく眠れなくなるくらい緊張してしまうし。とても不器用なインタビューだと思う。決して得意ではないし、好きかと言われるとそれも違う気がする。ただ「したい」と思う。

したいインタビューとは何かというと、わたしは「ふたりで言葉を探すこと」だと思う。
「言葉をもらう」のではなくて、「言葉を探す」。ふたりで。わたしと、彼・彼女で。
それはコミュニケーション。とても濃密な。だから正解はないし、とてもエネルギーを使う。


柿次郎さんは、たくさんのことをわたしに話してくれた。1時間のつもりが2時間半。考えてみればこれまでしたなかで最長だったかもしれない。映画が一本観れる時間、わたしの質問に柿次郎さんは答え続けてくれた。
「全部話さないと、土門さんが聞きたいことにたどりつけないと思って」
ガラス張りのカフェのなか、外がどんどん暗くなっていくのを感じながら、こつこつと土を掘り続けていく感じだった。時に道をそれたり、違う場所も掘ってみたりしながら。

ずっと掘り続けて、最後の30分にさしかかったときに出た言葉に、思わず立って拍手しそうになった。嬉しかった。「聞きたいことにたどりつけ」た気がした。

でもそれにも正解はない。ただ、熱量をかけて一緒に掘り出した答えであるということだけが、わたしには「良い」と思える基準だと思う。だからわたしは、インタビューをしたあとは空っぽだ。無我夢中だから、何を話していたか覚えていない。あるのは「掘った」そして「何かを見つけた」感触のみ。テープ起こしをしてやっと、「こんなことを話していたのか」とわかる。

気がつくと日がとっぷりと暮れていた。立ち上がるとふらふらした。
爪の中に土が残っているかのような、そんな感覚でカフェを出る。

2018/04/08(日)

宿には行かず家にいた。
昔買った写真集を見て、昔好きだった曲を聴いた。そして髪を短く切った。

18の、ひとりで暮らしていたときの気持ちに時々戻りたくなる。
ひとりで本を読み、ひとりで音楽を聞き、ひとりでふとんを敷いてひとりで電気を消してひとりで眠っていたころ。
あのころわたしはまだ未成年で、社会のことなんてまるでわかっていなくて、それでもひとりでちゃんと生活をしていた。箱ティッシュも洗濯物を入れる籠もカーペットも厚手のコートも、わたしには要らないって思っていた。そしてそれらなしで生きていた。
あのころの気持ちに時々戻って、あのころの目でいまの自分を見ていると、いてもたってもいられなくなって、わたしはものをたくさん捨てる。

生きるとは変わらないものを最小限に抱えながら、最大限に変わっていくことなんじゃないかと思う。