文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/11/11(日)

昨日長野から東京へ車で帰る際、橋の上を通る道があった。紅葉がとてもきれいだったので、運転していた編集者が「ちょっと降りて歩いてみようか」と言って、道路の脇に車を停めてふたりで降りた。山と山との間を流れる川に架かったその橋はとても高いところにあって、川を覗き込もうとするとあまりの高さに少しくらっとした。
そのときわたしたちは他愛もない会話をしていたのだが、「もしかして彼はわたしをここで突き落とすつもりなのではないか」とふと思いついた。前の晩もそうだったが、わたしにはそのような妄想癖がある。自転車で走って角に差し掛かるたびに暴走車にはねられることを想像するし、駅のホームに立てば後ろから突き落とされることを想像する。根拠はないし、信じているわけでもない。ただ、「そうなる可能性はゼロではないんだよな」と思うのだ。それで、橋の上でもそんなことを考えていたのだが(もちろん口には出さない)、突然編集者がふざけてわたしを橋の上から落とそうとするふりをした。その瞬間、わたしは妄想が現実になったのだと思って、とても大きな声で叫んだ。編集者は笑ってすぐに離れたけれど、「やめて! こっちに来ないで!」とわたしが本気で怖がっていると気づくと驚いた顔をしていた。もちろんふざけていることはわかっていたし、わたしもすぐに気をとり直して笑い返した。だけど、彼がこちらを振り返るたびに本気で身構えるわたしに、
「僕が君のことを殺すわけないじゃないか」
と、真顔で言った。
「だけど、殺す可能性がまったくのゼロだとは限らないでしょう?」
そう言うと、彼はますます彼は驚いた顔をした。
「君の妄想は、君の現実を侵食するんだな」
わたしはその言葉を聞いた瞬間、なぜだか涙が出そうになった。


今日は夕方、こどもを二人連れて、ゼスト御池にあるふたば書房に行った。
児童書のコーナーで、長男がサバイバルや生き物の本を、次男が車の本を物色し始める。わたしは自分のためにコミックコーナーのほうを見やった。するとそのあいだの通路を編集者が偶然歩いていて、「柳下さん!」とわたしは思わず声をかけた。彼は彼の娘を連れていた。「こんにちは」と言うと、小さな女の子は緊張した面持ちで父親のかげに隠れつつ、それでもきちんと「こんにちは」と返してくれた。

わたしはとても久しぶりに父として在る編集者を見たので、新鮮な気持ちで彼と向き合っていた。娘さんはわたしたちが話しているあいだ彼に抱きついたり、大きなお腹をぽんぽんと叩いたり、「ねえお父さん、あの本、学校にあるんだよ」と教えてあげたりする。

「なんだか胸が熱いよ」と言うと、「どうして? ねえ、この女のひと、変なひとだね」と編集者が笑って娘さんに言う。

わたしはきのう、この彼を殺人者だと思ったんだなあと思う。
なるほど、確かにわたしは変なひとかもしれない。

だけどやっぱり……とわたしは書店を見渡す。

「この世では 何でも起こりうる 何でも起こりうるんだわ きっと どんな ひどいことも どんなうつくしいことも」

 
岡崎京子の作品『pink』でユミちゃんはそんなことを言っていたんだ。そして彼女は最愛のワニを殺され、大切な恋人を交通事故で失った。空港で、何も知らない彼女は恋人を待ちながら、南国を想像しながら、のんきに笑っている。

彼女もまた、わたしの現実を侵食しているのだなと思う。

こどももわたしも、それぞれ読みたい本を買って帰った。

2018/11/09(金)-10(土)

きのうから今日にかけ長野の東御市に出張に行っていた。東京駅から車で3時間ほど。ドライブをしていると、人生って複数あるんだなと思う。窓の外するすると変わっていく景色を見ながら、「ここに住んだ自分」について考える。「ここに住んだ自分」の数だけ人生があるような気がする。『プリンセスメゾン』という大好きな漫画があるが、その中に数年単位でマンションを売り、また違うマンションを買う、そのたび住む場所をどんどん変えていくデザイナーの女性が描かれている回がある。わたしはその人を見ながら、自分もこのように生きていくことが今後あるだろうかと考える。その生き方は誰かを傷つけるように思う。だけど、誰かを傷つけることがそんなにいけないことなのかどうか、わからない。ひとりの自由はひとりのからだにしか宿らない。

ペンションのツインルームに泊まったのだが、空いているベッドに誰かが寝ているような気がしてなかなか寝付けなかった。深夜3時半ごろまで起きていたように思う。妄想をたくましくし、それに呑まれる自分を恨む。いつか本当に呑まれ切るかもしれない。ときどき、呑まれきったほうが楽なような気持ちにもなる。そんな自分は自由から遠く離れているように思う。

2時間半ほどしか眠れず、夢もたくさん見たので、夜が地続きになっているような気がした。犬の鳴き声で目が覚め、窓の外を見る。犬が二匹こちらを見て尻尾を振った。朝焼けは雲に覆われ、やわらかいグレーに光が多く含まれていた。

2018/11/08(木)

4章の改稿をやっていて、これまで見えてこなかった問いがまたちょくちょくと出てきていて、今日だけでは書くのが追いつかなくて、「保留」をつくりながら前に進んで、ようやく最後までいった。最後までいっても、また戻らなくてはいけないのだけど、一度5章にいって考えたほうがよさそうな気がする。ぐるぐるとまわりながら書く。ものすごく頭が疲れて、コーヒーを飲みながらカステラとアルフォートとみかんをしきりに食べた。作業と創作は違う時間の食い方をする。創作は時間の換算ができないから、〆切というものでしるしをつけねばいけないのだろうなと思う。このあいだ編集者に設定してもらった〆切に、5章も0章も間に合わず、守ることができなかった。

最近、ぽろぽろと短歌を詠んでいる。短歌は、死を感じているときにしか生まれないような気がする。不思議なもので、死を感じているときほど「死にたい」という感情は起こらない。だって死ぬのだから。「死ぬんだな」と思うことと「死にたい」と思うことはとても遠い。「死ぬんだな」と思うときに短歌は生まれる。短歌はやさしい。歌だからだろうか。自分のつくった短歌を前にすると、「いつか死ぬんだな」という気持ちはますます強まって、「だからきょうもひとつ作品ができてよかった」と思う。それはやはりさみしい気持ちだけれど、こわいとか不安とかからは遠い気持ち。作品をつくるとき、いつもそんな気持ちな気がする。そのスパンが違うだけで。

わたしが死んでも、作品は残る。残したいとは思わないけれど、生きている自分のために残せてよかったと思う。

2018/11/07(水)

このあいだ編集者と話していて、作品づくりにはメタファーとして、木から像を彫りだす感じと、粘土から像をつくりだす感じがあって、前者は木の中にある像をそのまま外に出そうという無心な気持ちでやるけれど、後者は「もっと鼻を高くしてやろう」とか「目を大きくしてやろう」とか雑念が入りやすい気がする、と言っていた。

そのときわたしは女の子の顔について考えていて、自分の顔のよいところを活かそうとするのは前者で、自分の顔の悪いところ(嫌いなところ?)を直そうとするのは後者なのかなと思った。それは化粧に顕著に表れる。

自分の顔のよいところを見つけるには、自分の顔と向き合い、じっと見つめて探すしかない。よいところはあるのだ、と信じながら。

それは作品にも同じことが言えて、やはりこちらもじっと読んで探すしかない。この作品には大事なことがすでに書かれてあるのだ、と信じながら。

今日は4章の途中まで改稿をした。

2018/11/06(火)

最近、夢を一晩に4つも5つも見る。ふと目が覚め、「こんな夢を見ていた」と思うことで眠っていたことを確認し、また眠り、また目が覚め、夢を見ていたことで眠っていたことを確認する。その繰り返しで朝が来る。このごろはとくにひどい。睡眠時間のうちに、夢を見ていない時間もあるんだろうかと心配になる。よく見るのは、セリフを覚えていないのに舞台に立つ夢。楽器を練習していないのに、ライブをする夢。演劇も音楽もやったことがないのに。

わたしの眠りは「苦しい」に近い。目が覚めたときにどっと疲れが出て、「ああ、助かった」と思う。大学4年にはすでにそうなっていた記憶があるから、もう10年はそういう状態が続いている。「眠るのがきらい」と若かった頃のわたしは言っていた。「うまく眠れないから」と。うまく眠れる日が来るのはいつなんだろう。

3章の改稿が終わる。次は4章と5章、そして、週末の出張取材が待っている。

2018/11/05(月)

大学や短大の取材をすることがちょこちょこある。教育について話を聞くのはおもしろい。このあいだ編集者が「僕が推測する土門さんの興味がある職業トップファイブ」と言って「経営者・編集者・料理人・教師・カメラマン」を挙げていたのだけど、本当に合っていると思う。それぞれに共通するのは何かなと思ったら、それは視点のあり方がわたしと違う、ということなのだった。
わたしは視野がとても狭く、近眼的だ。ひとつのものをクローズアップして見る癖がある。だから断片的だし印象的だし、目の前のものでいっぱいいっぱいになるため、いつも不安定なのだ。その目の前にあるものに翻弄されないようになんとか書き続けることで、その文章の断片たちを貫く何かを探しているような気もする。
だけど、さきほど挙げられた職業のひとたちは、より俯瞰していたり、見方が多面的だったりする。自分のつくりたいもののイメージがあって、実際にそれをこの世に生み出そうとすることをおそれない。世界に対して心を開き、ひるむことなく手を伸ばし、世界と濃密なコミュニケーションをとっている。中でもいちばん物書きと近しいと思われるカメラマンだって、シャッターを切る瞬間は被写体の領域にかなり踏み込み気配に触れている。だけど書くことは違う。「触れる」というよりは、「見る」に近い。だけどわたしは、「触れる」に近い「書く」をしたいと思う。だから憧れているのかもしれない。

今日話を聞いた学長は、「平和」についての学問が専門なのだと言っていた。

「平和っていうと、穏やかでほのぼのとしたイメージがありますよね。だけど、他国の多くでは、『平和』というのはもっと緊張感のあるものなんです。手を繋いでにこにこと仲良しの関係を結ぶことが『平和』なのではなく、お互いに向き合い、違いをしっかりと認識し合い、緊張感をもって対話し、受け入れられるところから受け入れていく。そうすることによって『平和』をつくる、というのが多くの国での認識なんです」

そして彼は、自分自身ともそういう関係をつくってほしいと言った。
「自分と緊張感をもって対話する」
わたしが繰り返すと、彼は「そうです」と言った。
「それは、敬意とも言い換えられますか」
すると彼はもう一度うなずき、「そうです」と言った。

わたしの思う「世界との濃密なコミュニケーション」とは、もしかしたらこれなのかもしれないと思う。ただほのぼのと穏やかでのんきなものではなく、もっと緊張感のある敬意によって構成されているのかもしれない。

緊張感のある敬意をもっているから、世界に対して手を伸ばせるのかもしれない。

2018/11/04(日)

舞台芸術集団VOGAの公演『直観と情熱』を観に行ってきた。これまでVOGAの作品はおろか、舞台芸術というものをほとんど観たことがなかったので、光と音の演出効果がこんなにも大きいものなんだなということに驚いた。光の当て方が変わるだけで、場所ががらりと変わるのがわかる。
脚本家の近藤和見さんという方には一度インタビューさせていただいて、その後お酒を飲みに行ったのだが、彼の頭の中にはこんな世界が格納されていたんだなと思うと、そらおそろしいような気持ちになった。
舞台は抽象的だったけれど肉感的で、終わったあとにぼうっと道を歩いていたら、ふと「ああ、さっきのあのシーンはこういうことだったのか」と、さきほどの小劇場での世界と自分のなかのシナプスが繋がって、心が小さく震えることが数回あった。

千林大宮という駅には初めて来たが、駅近くに「本」と書かれた看板があったので近寄ってみると古本屋さんだった。外に出されている段ボールを覗き込むと、岸本佐知子さんの随筆が一番上に乗ってあり、裏表紙を開くと鉛筆で「150」と書かれていたので買った。家から持ってきた本を、電車の中で読み終わってしまったのだ。おじさんは丁寧に白い紙袋で包んでくれた。