文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/07/11(木)

『経営者の孤独。』の発売日。

午前中から昼にかけて、新しい仕事のインタビューだった。お蕎麦屋さんで、ご馳走になる。緊張していたからか、すぐにお腹を壊した。お腹を壊さないようにあったかいお蕎麦を頼んだのに。何を食べるかは、あまり関係ないのかもしれない。緊張したときになにか食べればお腹を壊すのだ、きっと。少し学んだ気分。

帰りに、ジュンク堂に行く。『経営者の孤独。』が置かれていないかを見に行ったのだ。一階の新刊コーナーにも文芸コーナーにも、それから二階のビジネスコーナーにも行ったけれど、置かれてなかった。残念。今日じゃなく、明日には並べられているかも。並べられていたらいいな。そのあと、四条河原町の丸井に行って、ふたば書房に行こうとしたら、お店自体がなくなっていた。河原町ブックファーストもなくなった。残るは高島屋のなかの大垣書店だけらしい。

まだ書店に置かれている『経営者の孤独。』を見ていないので、なんとも実感がわかない。またどこかの本屋さんに行ってみようと思う。

家に帰って、仕事をする。粛々と、やるべきことをやろう。生活は続く。

2019/07/10(水)

文章が書けなくなるときがある。書いても書いても、全然つまらない。こういうのが書きたいんじゃないのに。でも、締め切りは迫ってくる。なんだか泣けてくる。「もういいや」と諦められたらまだ楽なのに、それもできない。こんなこと、これからも何度もあるんだろうな。結局、締め切りには間に合った。よかった。ほっとして、よく眠る。

2019/07/09(火)

写真は何を撮るかではなくどう撮るかである。と言ったのは、誰だったろうか。その言葉のとおりに世の中を見ていると、確かに「何を」撮ったり書いたり描いたりしているものは多いけれど、「どう」を感じさせるものは少ないのかもしれない。多分そっちのほうが難しいということなんだろう。
写真教室に通って以来、光を意識するようにしている。光を見る、ということをするようになった。「ああ、きれいな光だな」と思うと少しだけ泣きたくなるのはどうしてだろう。まるで、もうこの光を見るのはあとわずかなのだというように。

2019/07/08(月)

出張から帰ってくると(と言ってもきのうは日帰りだったけれど)掃除をする。家を空けると家が荒れる。埃がたまったり、床がざらざらしたり、洗面所に髪の毛がへばりついていたり、ゴミ箱にゴミが溜まっていたり。1日でよくもこんなに、と驚くほどに。わたしは普段家でずっと仕事をしているので、そのいちいちがとても気になる。きれいに片付くとほっとする。それでコーヒーを淹れて仕事をする。

今日は不意に涙が流れた。ときどき、意味もなく涙が出てくる。最近は、それを止めようとしたりやたらに不安がったりしないようにしている。理由はわからないけど悲しいんだなとか、寂しいんだなとか、思うようにしている。思うだけで、それをどうにかしようとしない。だってどうにもできないんだから。山の天気みたいなものだ。
涙が出終わると、すっきりする。少し青空が見えるように。

わたしのことを「空みたい」と言った人がいた。よく色や天気を変える空みたいだと。空であることを空はやめられない。

2019/07/07(日)

東京へ日帰りで向かう。小説「戦争と五人の女」の装幀作業を柳下さんと太郎くんがしていて、そこに合流する。東京は雨が降っていて寒かった。

もともとは何もなかったのだよな、と思う。わたしの人生には、一緒に小説をつくってくれる編集者もデザイナーも、読んでくれる読者もいなかった。表紙をどうするかずっと考え込んでいる男性ふたりを見ながら、有難いことだな、と思う。有ることが難い。文字通りの言葉だ。

今日は帰ったら熱いお湯につかりたい。ゆっくり眠りたい。

2019/07/05(金)

もうすぐ七夕だ。次男の保育園で短冊をもらった。長男は「ノーベル賞をとれますように」という願い事を書いておいてねと言って、学校に行ってしまった。まだ話せない次男のかわりに「みんな元気に楽しく過ごせますように」と書く。それがいちばん。たとえノーベル賞がとれなかったとしても、だ。

わたしの願い事は、小説を書き続けられますように。できるだけ、長く、密度高く、書き続けられますように。というもの。その中には、周りの人の幸せな生活も、心身の健康も、仕事の安泰も含まれている。そういうものがあるから、わたしは書けるのだ。

今日は溜まっていた事務作業や新しく始まる仕事の準備やテープ起こしなどをした。やることがたくさんあるが、一個ずつよそ見せずにちゃんと終わる。やるべきことを地道に、こつこつと。できることしかわたしにはできない。