文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/09/24(火)

来月は外に出ることや人に会うことが多くなりそう。今月はわりと中にこもる時期だった気がする。どちらがよいとは言えないけれど、外に出ると気持ちが楽になるなとは思う。一個一個できることをやっていこう。わたしは子供にいつも「文句があるなら手を動かせ」みたいなことを言う。それはそのまま自分に向かう言葉だ。

 

最近ようやく料理ができるようになってきた。おいしくなくていい。とにかく、ごはんがある。その状態をつくればいい。基準をそこまで下げ、選択をそれ以外になくした。

 

ここにあるものでしか生きていけないとわかると、人は勤勉に、楽観的になる。

2019/09/23(月・祝)

今日思ったこと。世界観って何かなと考えていて、純粋と狂気の合いの子みたいなものかなと思った。その子は、他者に侵されない。
作品はもちろん、コラムにしてもSNSにしても、立ち居振る舞いにしても、他者の入る余地のない(それは排他的という意味ではもちろんない)人というのがいる。汚されないダイヤみたいな。清潔なのだ、とても。狂っているのに、すがすがしい。そういうのは、人を惹きつけるなと思った。なんでなんだろう。きれいなものを、みんな見たいのだろうか。

もうひとつ、今日思ったこと。コンプレックスについて。わたしには少なからぬコンプレックスがある。どれも、口に出せないほど恥ずかしいコンプレックス。今日そのうちのひとつを口に出して、思い切り泣いてしまった。「そこがいいと思うけど」と言われながら、「そうか、否定しているのは自分だけなんだな」と思って、もういいかなと思った。そのとき、なんだかひとつコンプレックスを乗り越えたような気がした。コンプレックスは、人に向かって口に出して、受け入れられて、初めて受け入れられるのかもしれないな。

2019/09/22(日)

京都音楽博覧会へ行く。くるりを観ていて思ったのは、悔しいな、ということだった。かっこよくて悔しい。いつもそうだ。くるりというのは、少なからぬ元・「京都の大学生」(80年代生まれの音楽や文学に携わる者)にとって、そういう存在なのではないかなと思う。年上の先輩であり、ずっと先を行くライバル(と言うととてもおこがましいが)であり、でもやっぱり青春時代のロックスターなのだ。そのバンドの中に、わたしの大学時代の友人がいるのもまたすごくよくて、わたしは彼女のトランペットを聴きながら泣いてしまった。

純粋な音楽への奉仕を感じる音楽が好きだ。そして、そういう音楽を聴くと、とても悔しくなる。自分はそういうふうにできているだろうか。もっとできることがあるんじゃないか。

20年近く前にリリースされた『ばらの花』を、今またライブで聴いて、それがとっても素晴らしくて、やっぱりまた悔しくて涙が出た。

2019/09/21(土)

雨で長男の運動会が中止になった。かわりは木曜にあるらしい。連れて帰って、家で過ごす。先日の写真集のワークショップで綴じきれなかったぶんを、3冊縫って綴じる。やりかけのことをやるのは気持ちがいいなあ。

夜、メイ・サートンの『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』を読む。

「一日で詩の書き方を学ぼうとしたってむりよ。詩は感情じゃないんだから」
「じゃあ、何なの?」
「もちろん、第一は感情よ。でも、それだけなら、だれにだって書けるはずでしょ。詩を書くには、それ以上のものが要るのよ。感情を理解して、秩序だてなくては。存在するだけ、作るだけ、じゃないの」

感情を理解して、秩序だてる。詩っておもしろいな。小説とはずいぶんちがうのだろうか。わたしは小説のことだって、ちっとも理解していないが。詩をちゃんと読んだことは少ない。今度読んでみよう。

2019/09/20(金)

ふと、昔インタビューしたイラストレーターの方のことを思い出した。まるでみずみずしい果肉のような、さわやかでほのかに甘い、美しい絵を描く人だった。彼女に「絵を描くときに大切にしていることは」と尋ねると、「いつも気持ちよく描けるようにしておくことです」と言っていた。「自分が気持ちよく描かないと、みてる人も気持ちよくないから」

 

書くこともそうだと思う。しかめ面して、苦役のように書く文章ではなく、うわって風と一緒になるかのように走ったり、鳥になったかのように宙に浮いたり、そんな、おもわずこわくて笑ってしまうような感じで書きたい。書けたらいいなぁ。書くことって本来自由なんだよ、ほんとだよ、自分。

2019/09/19(木)

読まないと書けないなって思う。よい文章を読まないとよい文章が書けない。以前写真家の方が「自分よりもよい写真家を見ると、嫉妬してもうそのショットが撮れなくなるから、あまり見たくない」とおっしゃっていた。わたしにその感覚はない。嫉妬は人にはするが文章にはしない。よい文章を見るとよい文章を書けそうな気がしてくるからだ。だからわたしはよい本を読んでいたい。つねによい文章に触れていたい。最近わたしは、よい文章を読んでいないのかもしれない。よい漫画を読みよいドラマを観てよい写真を見たけれど。それらとよい文章がもたらすものは少し違う。直接的なのだ、だって同じ文章だから。直接的な油になる。わたしの中の機械を動かす。

書くのは楽しくない。だからわたしは、必要なものしか書けない。明日もまた書こう。

2019/09/18(水)

自分のことを書いている。『戦争と五人の女』をどのように書いたのかを書き記した記事だ。自分で自分にインタビューする感じで書いてみようか、と思い、「ですます」調で書き始めたのだが、すぐに力尽きた。どうやら「ですます」調は、自分にとって長く書くのに向いていない文体らしい。通常のインタビュー記事はさきに発言ありきなので、まだ自分の中に埋もれている言葉を引っ張り出すには、「だ・である」調がきれがよくていいのかもしれないなと思った。明日からそれで書いてみよう。

しかし思うのだが、自分に興味がないと自分のことって書けないなと思う。
わたしの中の読者が、「わたしのことを知りたい」と言わないと、文章って書けない。というわけで、書きあぐねている。