文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

文鳥が歌を学ぶ生き物だから

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わたしたちの出版社を「文鳥社」と名付けたのは、文鳥が歌を学ぶ生き物だから。

 

文鳥のオスは、歌をうたってメスに求愛する。
その歌が複雑であれば複雑であるほど、メスを惹きつけるそうだ。
時折、歌が複雑になりすぎるオスがいるのだという。
その歌は、もはや繁殖のためではなく、美を追求する、芸術に昇華されるのだそうだ。

そういう話を、この夏にある文庫本で読んで、ずっと覚えていた。
気に入ったのは、文鳥が後天的に歌を学んでいくというところだった。
先天的な能力だけではなく、後天的な努力によって歌を磨いていく。
わたしもそうありたいと思うし、そうある人の言葉を大事にしていきたい。

わたしは言葉を信じている。
だから、文鳥社と名付けた」


文鳥社を立ち上げて初めての日記に、そう書いた。
文鳥社」という名前を口に出すたび、文字にするたび、自分がなぜ「文鳥社」と名付けたのかを振り返る。
そうだそうだ、文鳥のように、わたしも努力を惜しまず、言葉を磨いていこうと思ったんだったと。
果たしてわたしは今、それができているのかな、と。



文鳥社の一冊目がもうすぐできあがる。
短歌と絵の本だ。歌集と画集が、一冊になった本。
文鳥社の一冊目に「歌」があるのは、無理にそうしようと思ったわけじゃない。
とても自然にそこに行き着いた。わたしたちの第一冊目。

「本を作りたいと思ったことはない?」
文鳥社を始めるとき、柳下さんにそう聞かれて、わたしは「ある」と答えた。
「歌集を作りたい」



そのときにはもう、わたしは小説を書き始めていた。

もともと、柳下さんとわたしは「編集者と小説家」という関係から始まっている。
ある日目の前に現れた柳下さんは「君の小説を読みたい」と言ったのだ。

わたしは彼に出会うまでに、三つの小説を書いている。そのすべてを文芸誌の新人賞に応募した。ひとつは最終選考まで残ったが、選評で散々な酷評を得た。ほかのふたつは評されるところまでも行けず、タイトルだけが小さく載った。
わたしは、それらの小説をほとんど誰にも見せず、自分で読み返すこともしなかった。新しいものを書くこともせず、そのデータすらもう消そうと思っていた矢先、「君の小説を読みたい」と言われた。
それが自分でも思いがけないほど嬉しかった。そしてなんとなく、これを逃したらもうわたしは小説を書かないだろうと思った。それで「書きます」と即答した。きっとこれは、小説の糸口をつかむ最後のチャンスだと。

わたしはまた、性懲りもなく書き始めた。書き始めてすぐ、なんというコースを走り始めてしまったんだろう、と思った。
でもここを走り切れたら、もう何も後悔はない。そう思えたことが嬉しかったし、わたしはどこにあるのかわからないゴールをめがけて、走り始めた。


「本を作りたいと思ったことはない?」
と言われ、すぐに頭に浮かんだのは、ある歌人の顔だった。
小説を書いているわたしに、編集者としての目はないに等しい。編集者が作家を見る目で、作家を見ることができない。
だから、そのとき頭に浮かんだ歌人の顔は、「作家」ではなく「仲間」だった。
一緒に何かを作っているわけではないのだけど、遠い地で、それぞれひとりでつくっていて、ときどき作品を見せてもらう。それを見て、「がんばろう」と思う。そんな「仲間」の顔。


彼女とは大学時代に知り合った。短歌をつくっていると言うので、「見せてほしい」と言ったら、彼女はA4のコピー用紙に自分の短歌を出力してわたしに渡した。
そこに印字された短歌を見て、わたしは目の前の女の子に打ちのめされた。思わず彼女の顔を見て「すごい」と言った。帰ってからもう一度読み、わたしはいてもたってもいられなくて彼女に手紙を書いた。
「ずっと短歌を詠み続けてください」

10年以上経った今でも、わたしはそのコピー用紙をファイルに保存していて、本棚に差している。そして「この人には彼女の短歌が必要だ」と思う人に出会うたび、いそいそとそのファイルを持ってきて、見せている。「すごいでしょ、この短歌」と言いながら。


柳下さんは出版の原点を
「ねえねえ知ってる? こんなにすてきなものがあるんだよ」
だと言った。
それを聞いたとき、わたしのあのファイルを思い出した。あのファイルは、いわばひとつの出版の原点なのだな、と思った。
だから文鳥社でそれをすればいいのだと思った。
わたしの誇らしい「仲間」を、世界に知ってもらうことを。



文鳥社が立ち上がって、すぐに彼女に連絡をした。
「出版社を立ち上げたので、あなたの歌集をつくりたい」
突然そんなことを言い出した大学時代の旧友に、彼女は何を思っただろう。夢見がちで子供じみて聞こえたかもしれない。
それでも彼女は「ぜひ」と言ってくれて、今は他に取り組んでいることがあるから、時間がかかるかもしれないけれど待っていてください、と言ってくれた。

数年かかるのは覚悟しようと思った。
そして、彼女の本を出せるまでの「数年」を、文鳥社をちゃんと文鳥社として存続させる最初のひとつの指標にしようと思った。
わたしが初めて、文鳥社で出したいと思った本。つまりそれが初心なのだと思って。


その「数年」が幕を開け、まず、わたしは何ができるだろう、と考えた。
そして、彼女の歌集を出す前に自分で一度歌集を作ってみてはどうだろうかと思いついた。
作ったら作らなかったときよりわかることがあるはずだし、学ぶことも多いはずだ。作らないでいる理由はない。

そう考えて、まずは短歌がいるなと思った。歌集の素材としての短歌。
それで、自分で短歌を書いてみることにした。
一日ひとつ。とにかく最初は量産だ。一年続ければ、質はどうあれ365首の歌ができる。そう思って、短歌をつくり始めた。

それからは、小説を書きながら、短歌を書いた。
小説が長い長い映画だとしたら、短歌は一瞬を切り取る写真のように思えた。使う筋肉が違うのだ。それはこれまでほとんど使ったことのない部分だった。
こんなふうに世界をあらわすことができるのかと、わたしは「短歌」という手法にあらためて驚いた。


短歌ははじめ、写真であり、標本のようだった。
そのうち抽象画のようだと思うようになった。
詠む人と読む人の心象風景のピントを合わせる作業。
そして規律があるがゆえにもっと高く飛びたいと思う。
それらは、詠む前にはわからなかったことだ。


わたしは毎日詠んだ。どうしても詠めない日には、次の日に2首詠んだ。そうして短歌が50首くらいになったときだろうか。
柳下さんに
「トリミングをテーマにした、寺田マユミさんのイラストブックを作りたいのだけど、君、文章を書いてみてくれないかな」
と言われた。

トリミング。わたしはそれを聞いてすぐ、短歌のことを思った。
柳下さんに「短歌」と言った瞬間、すべてを口にする前に彼が「すばらしいアイデアだ」と言った。
「君の短歌が僕は大好きだから」
と。


自分で編もうと思っていた短歌たちは、こうして柳下さんに編み出された。
そこに寺田マユミさんの絵が生まれていく。デザイナーの敬子さんがデザインしていく。
目の前でどんどん編集され、肉付けされていく様子を見ながら、わたしは「ひとりではないというのはこういうことなのか」と目を見張った。どきどきして、ものすごく嬉しくて、目の前のみんなに感謝して、それと同時に怖気付いた。
短歌を詠み始めたばかりのわたしが歌集を出して本当に良いのだろうかと、思わなかったかというと、そんなことはない。
だけど、文鳥社はそもそもなぜ生まれたのだったろうか。
自分たちがつくりたい本をつくるために、立ち上げたのではなかっただろうか。

わたしは自分が胸を張ってこの歌集を出すこと自体が、文鳥社が文鳥社たらんとする態度の表明のように感じた。
それはつまり、わたし自身の態度の表明でもある。
先天的な能力だけではなく、後天的な努力によって歌を磨いていく。
わたしもそうありたいと思うし、そうある人の言葉を大事にしていきたい。

文鳥のように、わたしも努力を惜しまず、言葉を磨いていこう」



友人の歌人に、歌集をつくっている旨連絡をした。友人は、こう返信してくれた。
「純粋に楽しもうとしているのが、すごいんだろうな」
そして佐竹彌生という歌人の、ふたつの歌を送ってくれた。



月光の石にしずかに靴脱ぎぬほそほそと道谷の深みに


胸のなかにひろがることばみんな死ねポップコーンの袋を抱え




わたしはそれをよくよく読む。
そして、いつか彼女の歌集を作れますように、と思う。

蘭ちゃんに励まされました、と彼女は言う。
でもわたしは、彼女の短歌に奮い立たされただけだ。文鳥社も、この歌集も、もとをたどれば彼女の短歌に出会ったあの日の延長線上にある。
「短歌をつくり始めてから、あらためてあなたのすごさがわかりました。あなたはやっぱりすごい」
わたしは彼女にそう送った。


歌集のために短歌を選び終わったあとも、新しく詠み続けている。
わたしの手元にある短歌は164首になった。今日は165首目を詠む。


この本のタイトルは
『100年後あなたもわたしもいない日に』という。



文鳥社・土門蘭