文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018年2月14日(水)

宿に滞在するようになってから、いくつか知ったことがある。
そのうちのひとつは、
「ここは、何ですか?」
と言いながら宿に入ってくるひとがいるということだ。ひとの好奇心というのは大人になっても衰えないものなのだな、と驚く。
「ここは、何ですか?」
そう尋ねられ、何かわからないものの一部であるわたしは口を開く。未知としていることの心地よさも、わたしはここに来て初めて知った。

午前中には自転車に乗ってきた女性がふらりと入ってきて、やはり
「ここは、何ですか?」
と言った。
見知らぬひとと向かい合う瞬間は、新しい風が吹き入れられる感じがする。ひとによってその風はちがう。いいにおいの風のひともいれば、あたたかい風、まぶしい風、やわらかい風のひともいる。それもまた、ここに来て知ったことだ。
女性は宿の一階をぐるりと見回し、二階もゆっくり見て、「おもしろいですね」という言葉を何度もつぶやいた。わたしが名刺と自分の本を渡すと興味深そうにじっくりとページをめくり、やっぱりまた
「おもしろいですね」
と言って、1冊買ってくれた。
帰りに、「おすすめのお店はありますか?」と聞かれたので、この通りをまっすぐ行ったところにチタチタ喫茶というお店があると答えた。
「コーヒーがすごくおいしいです」
と言うと、彼女はお礼を言って自転車で去っていった。


ひとりになり、こたつに入る。
書類仕事やメールの返信が溜まっていて、このままではいけないと思う。思いながら小説の改稿をするも、集中できない。業務連絡メール、本の注文管理と発送、さらには息子の学童の申請、予防接種の日程調整などが頭をちらちらよぎる。諦めて、メールの返信に取り掛かる。編集者がどこかで見ている気がする。

昼前に岩崎くんが来て、
「昼飯は?」
と聞かれた。彼はこの時間にはだいたいお腹を空かせているようだ。
「チタチタ喫茶に行きたい」
そう答え、すぐに行く準備をする。

チタチタ喫茶に行くと、そこにはさっきの彼女が座っていて、わたしの本を読んでくれていた。あっと思い挨拶をし、岩崎くんに事情を話す。それを聞いたチタチタ喫茶のむつみさんが「あら、ありがとうございます」とカウンターの奥で笑ってくれた。いつもはクールなむつみさんが笑ってくれると、わたしは嬉しい。
「この本、おもしろいですね」
彼女はまた言い、「一気に読みたくない感じ。ゆっくり読みますね」と言って、コーヒーを飲み終えてまた自転車に乗って去っていった。

岩崎くんはハヤシライスとミックスジュースを、わたしはハンバーグセットとコーヒーを頼んだ。きょうは二人で、友達について話をした。ふたりとも友達は少なく、「友達=親友」という意見で合致した。


午後には、女性と男性の二人組が宿に来た。若い二人は、それぞれ東京で絵を描いていると言った。女性は敬子さんの元教え子らしい。一緒に作った本を見せると、
「岸本先生、すごいなあ」
と言い、一冊買ってくれた。ふたりの名刺にはそれぞれ、自分たちが描いた絵が施されていた。


夕方、小嶌(こじま)さんが自転車に乗ってやって来た。
「こんにちはー」と長くきれいな髪の毛を揺らしながら入ってくる。
お互いに顔は見知っているものの話すのは初めてなので「はじめまして」と挨拶をしたら、小嶌さんは「はじめまして」と言いながらするっとこたつに入り、目の前でにっこりとした。それから「バレンタインだから」と言って大振りのいよかんを4つほどかばんから出した。
「チョコよりこっちのほうがいいでしょう?」
わたしが思わずうなずくと、一個目の前にぽんと置いてくれた。それから、
「土門さんにはどこを切り取られて何を書かれるかわからないなあ」
と言って笑った。まるで、どこを切り取られても何を書かれてもまったく構わない、といったていで。コーヒー飲みますか、と聞くと、小嶌さんは「わーうれしい」と言った。

こたつの中で向き合っているうちに、気づけばわたしは小嶌さんの恋の話を聞いていた。今気になるひとがいるらしく、友達に「アタックしなよ」と言われ、アタックしようと試行錯誤を重ねているらしい。
「わたしはついつい分析してしまう癖があるんです」
と言いながら(小嶌さんは東大の理工学部出身だ)、脈ありの根拠と脈なしの根拠、そして彼の好きなところと少しだめなところを端的にあげた。

「誠実さも大事だけど、色気も大事ですよね」
と小嶌さんは言う。わたしが
「彼は両方を兼ね備えているんですか」
と聞くと、小嶌さんはまじめな顔でうなずいた。


時計を見ると、帰るべき時間を15分ほど過ぎていた。