文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018年3月1日(木)

自転車で宿に向かう。

着いて自転車を停めて振り返ると、そこに女性が立っていて目が合った。
「土門さんですか?」
と聞かれ、「はい」と答えると、彼女はぱっと顔を明るくさせて、
「握手してもらっていいですか」
と言った。

「会えてうれしいです」
握手をほどいた手を鞄の中に入れ、彼女はわたしたちの本『100年後あなたもわたしもいない日に』を取り出す。
「昨日これを本屋さんで買って読んで、とても感動して。それでこの本のことを調べたら、ここで土門さんが今日在廊するって書かれていたので、会いにきました」

彼女はカワダさんというお名前で、大阪に住んでいらっしゃるらしい。
「この本を読んで、本当にこれはすごいと思って、なんていうのかな、もう、ばびーんときて」
ばびーん。わたしはうなずいて、彼女の言葉の続きを聞く。
「これまで生きてきて、こんなに好きな言葉を書く作家に出会ったのは初めてだと思いました。本を読んでいてこんな気持ちになったのが、本当に嬉しくて」

宿に入り、コーヒーを淹れて向かい合って座った。
それからもカワダさんは、言葉を惜しみなく出しながら本の感想を伝えてくれた。
「土門さんの短歌は詩のようだと思いました。実際、はじめは詩だと思って読んでいたんです。短歌って定型句できっちりしているイメージですけれど、土門さんの短歌はのびのびしていて。だから、詩人だなというふうに思って」
詩人。初めて言われた。「うれしいです」と言うと、「よかった」とカワダさんは安心したようにつぶやき、「正確には歌人だから、表現がブサイクかなと思ったけど、土門さんは詩人だと思ったから」と、丁寧に言葉を付け足してくれた。

「わたしも文章を書くことがたまにあって、それを読んだ人に『もっと書いてみたら』と言われることもあったんです。正直に言うと、本を読んでいて『わたしのほうが書けるな』と思うことだってたまにありました。でも、土門さんの言葉を読んですごく衝撃を受けました。ああ、こんなふうに書ける人がいるなら、わたしは書かなくていいなって思えた。それがすごく嬉しかったんです。そういう人と同じ時代にいられることが、本当に嬉しくて」

よしえさんは本を手に持ったまま、一所懸命話をした。ありがとうございます、としかわたしは言えなかった。


扉の外を見ると、赤ちゃんを抱っこした女性が立っていた。ママ友のみかさんだ。扉を開けると「蘭ちゃん、久しぶりだねえ」と笑う。在廊していることを知り、会いにきてくれたのだ。
みかさんも、カワダさんとはもちろん初対面だけれど、三人でこたつに入って話をする。授乳中のみかさんにはほうじ茶を淹れた。

こたつに入ると、カワダさんはこんなことを言った。
「歌をうたう人は、からだから歌が生まれるけれど、土門さんの文章もそうだと思います。才能は死ぬまで尽きないから」
「才能は尽きない」きのう、柳下さんに言われた言葉だ。「どれだけ書いても、才能は尽きないんだから」と。わたしは目の前の彼女をじっと見る。不思議な気持ちで。

それで、
「がんばって、書きますね」
と言った。すると間髪入れずに
「がんばらないとだめですよ」
と言われた。
「土門さんは、がんばらないとだめです」
そして無意識にだろう、両手をぐっと握りしめて、
「土門さんは、本当にがんばらないとだめですよ。絶対にもっとすごいものが書けるんだから」
と真剣な顔で、言った。

ああ、これも昨日柳下さんに言われた言葉だ。どうしたんだろう、今日は。なんでこんなことが起こるんだろう。

目を丸くしながら聞いていたみかさんは、横で次第に嬉しそうな顔になっていった。
「蘭ちゃん、よかったね、こんなふうに蘭ちゃんの本で喜んでくれる人がいて。すごくうれしいね」
みかさんにそう言われながら、わたしは自分が本当に子供になったみたいだと思った。泣きそうになるのをこらえながら、笑ってうなずいた。


わたしには「神様」がいて、ときどき手を触らせてくれることがある。
今日はそんな日だと思った。つまり、がんばらないとだめだということ。ここで少しでも怠けたら、わたしから「神様」はいなくなってしまう。


「あのね、わたしは本当に普段本を読まないんだけど、蘭ちゃんの本が欲しいなと思って。それで、もしよかったら、サインもしてくれないかな?」
みかさんがそう言ったので、わたしは喜んでサインをした。ひとつ、本に収録していない短歌をつけて。


おもちゃとか絵本の散らかるリビングでひかりのようなものを描いてる


これからまた、自転車でふたりの子供を迎えに行く。ごはんを作って、洗濯物を入れて。
そしてまた、書こうと思う。わたしにとっての、ひかりのようなものを。