文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/03/15(木)

正午、編集者と電話で少し話す。

「今ね、赤坂見附
と彼は言う。タクシーを降りたところらしい。
「お昼時なんだね。紺色の背広姿の人でいっぱいだ」
12時だからね、とわたしは返しながら、「ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ」と頭のなかでつぶやく。
「ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ」
わたしは、編集者のいる赤坂見附を想像する。春の陽だまりができた、静かなリビングにひとり座りながら。テーブルの上に置かれた書籍やコピーを眺めながら。

取材や資料集めの進捗はどうか、という話。
舞台が決まり、年表も固まってくると、「ここの資料が足りない」「ここで迷っている」ということがようやくわかってくる。声が元気そうだ、と編集者は言ったけれど、それは話すことがやっと明確になったからかもしれない。つまり、話すことがあるということ。

わたしがたっぷり話し終わると、編集者は
「君は秘密主義だな」
と言った。前から思っていたけれど、と。
「迷ったり悩んだりしたら連絡をして。壁に向かって話すよりマシなんだから」
わかった、とわたしは返す。そして、そうか、と思う。
そうか、もしかして、話すことがない・わからないときにこそ、話すべきなのかもしれないな。

「それから、迷ったり悩んだりしたときには、書きやすい方を選ぼう」
と彼は言った。
「書いてみないとわからないことってあるし、書き換えるにしてももとの分量が多いほうがいいからね」
わかった、とわたしはまた返す。

編集者はこれから仕事だと言い、少し急いている感じで電話を切った。お昼は食べたのだろうか。聞けなかったな、と、切ってから思った。


月曜ぶりに宿へ。
外はあたたかかったが、宿のなかはひんやりとしていて少し寒い。こたつの電源を入れ、淹れたてのほうじ茶をすする。

外を見ると、宿泊客の方らしき女性が中を覗いていた。入ってこないのかな? と思いながら、パソコンに向かう。なかなか入ってこられないので、扉を開けて声をかけてみた。
「今日泊まる者です」
と、彼女は言った。昼下がりの光が落ちた上まぶたが、きらきらしていてきれいだった。わたしは彼女にほうじ茶を出し、しまちゃんが来るのを待った。

いつもは岩崎くんかしまちゃんが説明をしてくれるのだけど、今日はわたしがしたほうがよいだろう。
「あの、わたしはここで、小説を書いています」
とりあえずそう言ったものの、説明が難しいな、と思って言いよどんでいると、
「はい。あの、知っています」
と彼女は言った。「そうですか」とわたしはほっとする。

そうしたらしまちゃんがやってきたので、わたしはまた、パソコンに向かって文章を書き始めた。しまちゃんはいつも通りてきぱきと、お客さんに必要事項を説明し、宿のなかを案内した。

しまちゃんが、
「ここ二三日、急にあたたかくなったんですよ」
とお客さんに言った。
「とても良いときに来られましたね」

カウンターからこたつまで届いたその言葉を、頭のなかで繰り返す。
「とても良いときに来られましたね」

彼女の旅は、しまちゃんの言葉で幸運の色を帯びる。