文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/04/19(木)

宿に行き、荷物を置く。今日は天気が良い。宿には誰もいなくて、土間はひんやりとしている。

元牛乳冷蔵庫だった白い小部屋には、今、これまでの日記小説が1枚1枚出力されて展示されている。わたしはじっくりと、それらを読む。こんなことを書いていたのか、と思いながら。とても寒い日、雪の降った日に、気を塞いだり、うれしくなったり、いろいろなことを考えたりしていた。そのときのわたしはもう今の自分とは違う人間で、わたしは他人が書いた文章としてそれを読む。

編集者は、「いい文章」の反対は「悪文」ではなく「妥協した文章」だという。
それを思い出し、本当にそのとおりだとわたしは心の中でつぶやく。「妥協するくらいなら、いっそ書かないほうがいい」と、容赦なく。この日記小説を書いている小説家に対して。

わたしのなかにはひとりの読者がいる。彼女はいつもそっけなく、正直だ。
手を抜いた文章を書くともう見向きもしない。わたしは諦めて、時間をかけた文章を消し、また最初から書き直す。彼女の目がぱあっと輝く瞬間を見たくて。
その目がなくなったらわたしはもう書けないと思う。彼女にはずっと、いつもそっけなく、正直でいてもらわねばならない。

牛乳小屋から出て、パソコンを開く。わたしはまた小説家に戻る。読者の目が、一緒に液晶画面を覗いている。



今日は宿に、男性がやってきた。岩崎くんのお知り合いらしい。岩崎くんがいないので、ふたりでぎこちなく挨拶をする。彼は浦岡さんといって、ミノトールという服屋さんで働いているのだと言った。ミノトールは岩崎くんから聞いたことがある。彼の好きなブランドだ。

そうしたら次は髪の長い女性がやってきた。「はじめまして」と言う。お客さんかと思っていたら、新しいスタッフさんなのだった。名前は茜さんで、普段は作家として活動しているということだった。三人とも初対面なので、少し緊張しながら笑い合う。


茜さんにどんな作品を作っているのか聞くと、宿に置かれているフライヤーを持ってきて見せてくれる。今京都芸術センターで展示をしているらしい。
「これがわたしの作品なんですけど」
と見せてくれたのは、石が集まってできた大きな楕円の球体だった。題名は、『ルッベルトの頭』。
「石でできた脳みそです」
と、茜さんは言った。

岩崎くんと藤本さんが来て、浦岡さんが帰る。茜さんが宿の掃除をする。わたしはコーヒーを飲みながら原稿を書く。

ふと、茜さんに聞いてみた。
「ルッベルトって何ですか?」
茜さんはメモ帳から顔をあげて(入りたてなので覚えることが多いのだ)、快く教えてくれた。

「ルッベルトは、お調子者とかお人好しという意味なんです。15,6世紀のオランダに、頭の中に石があるって嘘をついて、手術をするヤブ医者がいたらしいんですけど、それを信じてしまった人を『ルッベルト』と呼んでいて。この作品は、失われた脳みそを取り戻すというテーマでつくりました」
 
わたしはまた写真を見る。
茜さんは「愚者の石の切除」と表現した。大衆の脳から取り出された架空の石がここに集まり、大きな脳みそを作っている。茜さんは、この作品のためにオランダで石をたくさん拾ったのだそうだ。幅は2メートル以上あるらしい。わたしはそれを見てみたいと思った。

「とてもおもしろい作品ですね」
心からそう思いそう言うと、茜さんは恥ずかしそうに笑った。