文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/04/23(月)

短歌を詠み始めたのは1年前の今日だ。
そういえば確かに、こんな感じの気候だった、と思う。

そのときわたしはまっさらな手帳を持っていて、それを埋めるように、1日1首短歌を詠もうと思っていたのだ。日記みたいに。
それまでにもいくつか詠んだことがあった。辛いときが多かったと思う。感情の持って行き場がなくて、まるでクロスワードをするように言葉を探し当てて57577にした。そうすると、感情がいくらか慰められる感じがした。

そのとき、タイ料理屋さんで、柳下さんとお昼ご飯を食べていた。
短歌を詠み始めたと言うと、柳下さんは「見せてほしい」と言った。
わたしは恥ずかしくて最初「いやだ」と言ったのだ。これはまだ、誰にも見せるつもりではないからと。でも、柳下さんは食い下がらなかった。「見せてほしい」と言い続けた。
「逆に聞くけど、なぜ君はそれを見せないの?」
「だから、恥ずかしいからだって」
「僕は平気だ」
「でもわたしは平気じゃないよ」
そんな押し問答を何分かしたと思う。そのとき彼が何て言ったかはもうあまり覚えていないけれど、1年前の日記を読み返したら「編集さんはわたしを本のように読んでいて、わたし自身が知らなかったページ(くっついて開かなかったり、袋とじになっていたり、落丁してたり)を見つけてくれる」と書いていた。
最終的にわたしはそのことを理解した。つまり、彼はわたしの文章を可能な限り読もうとしているということを。それが小説であれ、短歌であれ、ブログ記事であれだ。わたしにとってそれは、どう考えても幸せなことだった。だからわたしは脂汗を流しながら、その手帳に書いた短歌を読んでもらった。

彼は言った。
「君の短歌、いいね」
シンプルな感想が、シンプルにうれしかった。
できあがった作品を見てもらえるというのは、なんてすこやかなことなんだろう。
脂汗を拭きながら、そう思った。そしてそれから1日1首を詠むようになった。

あれから一年が経ち、わたしの手元には歌集が生まれ、250首の短歌が残った。
そして、まだ長編小説は完成していない。
 

宿に行くと、久美子さんがいた。
久美子さんはわたしといるとき、よく泣く。これまでにまだ6,7回しか会ったことがないけれど、半分以上は泣いている。泣かないほうがめずらしい。ここに泣きにきているのかな、と思うくらい泣く。今日もまた、目の前で涙を少しこぼした。

目の前で人が泣くと、なんだかほっとする。葬式で盛大に泣く、「泣き女」という職業があるらしいのだけれど、それは悪霊払いでもあるらしい。
久美子さんはきょう、自分に対する「悪意」について泣いた。わたしはそれを見ながら、今彼女は悪霊払いをしているのかもしれないと思った。わたしも一緒になって、わたしに向かってきていた「悪意」をお祓いをしてもらっている気分だった。
泣くことは健康である証だと思う。わたしの目の前ですこやかでいてくれることは、わたしにとっても嬉しい。だからわたしは、人が泣くのを見るのが好きだ。

久美子さんは言った。
「悪意を、悪意じゃないものに変換する言葉を持つ、というのが、教養なのかもしれない」
そうですね、とわたしは言った。
「それが理性であり、知性なのだと思います」


藤本さんが、わたしのシャツワンピースを今日何度も褒めてくれた。
「すごくいいですね。そのワンピース」
紫色の、モリカゲシャツのワンピースだ。そう言うと、彼は得心したように何度もうなずいて
「すごく素敵なワンピースです」
と言った。
彼はもともと百貨店で働いていた。こんなふうにいつも、洋服を見ていたのかもしれない。なんだかわたしは、マネキンのような気持ちになった。それは少し良い気分だった。