文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/04/26(木)

宿へ。

ここに来るのもあと1回だと思うと、急に視界が広がって驚いた。
内側から見る外の景色、通り過ぎる人たち、やわらかく差し込む日光、ひんやりとした土間。
階段の壁に取り付けられた本棚から一冊本を取り出す。思えば、ここで本を手にとるのは初めてだった。こたつの上にかじりついていたのだ。宿の中をうろつく余裕もなかった。
鈴木いづみの短編集を開き、一文を読むと目が離れなくなった。そこにあった鋭く尖った物語に没頭する。ぶー、と、リュックサックの中でiPhoneが振動した。わたしは数分間集中して、ひとつの短編を読み終えた。本を閉じ、本棚に戻す。フィクションが指にねばつくようだと思う。じわじわと引き離すように現実に戻る。視線を上げると、たくさんの本がわたしを見下ろしていて、背表紙に書かれたタイトルが目に飛び込んできた。読みたい本がたくさんあったのだな、と思う。知っていたのに、知らなかった。

死ぬ前はこんな感じかもしれないと、ひだまりができている土間を見ながら思う。
「最後の魔法のおかげで世界はとても綺麗です」
二階堂奥歯という人はそう自身の日記に書いて、15年前に自殺をした。今日は彼女の命日だ。

わたしはこたつに入り、スイッチを入れる。外はあたたかいのに、宿は驚くほどひんやりしている。


今日は太田さんが来てくれた。二度めの来訪だ。出勤した茜ちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、向かい合って打ち合わせをし、それから世間話をする。太田さんには、今自分が取り組んでいること、関心のあることを、聞かれてもいないのに話してしまう。それは、19だった頃のわたしのことを彼が知っているからかもしれない。世間知らずで、貧相で、無鉄砲だった頃の。
まるで「ちゃんとやっていますよ」ということを伝えるかのように話してしまう。話しながら、ちゃんとやっているようには聞こえないなと思いながら。今も昔も、そんなに変わらないのかもしれない。太田さんはそれを褒めるでもなくけなすでもなく、静かに笑いながら聞く。

しばらくして、サノさんとマリンちゃんが来てくれた。マリンちゃんが手にもった包みを取り出し、がさがさと開けてくれる。そこにはたくさんの花見だんごがあった。
「コーヒーでいいですか」と聞くと、ふたりとも「コーヒーはちょっと」と言ったので驚いた。絶対好きそうなのに。「好きなんですけど……」とマリンちゃんが言い、サノさんが説明してくれる。夏のとても暑い日、ふたりともすごく寝不足のときだった。打ち合わせでホットコーヒーを出されそれを飲んだのち、事務所に帰ったらカフェインが効きすぎたのかなんなのか、ふたりともすごく気分が悪くなったそうだ。
「それ以来、なんとなく飲まんようにしてる。な?」とサノさんが言うと、マリンちゃんが頷いた。サノさんはデザイン事務所を営んでいて、マリンちゃんはそこで働く唯一の社員さんである。そんなふたりにとってそのエピソードは、なんだかすごく正しいもののような気がした。

太田さんとサノさんはもともと知り合いだったらしく(太田さんもデザイナーなのだ)、四人でこたつを囲む。
「インスタ見たら、ここにいるの今日とあと1日だけって書いてたから、もう今日行かななって思って、来た」
サノさんがそう言い、マリンちゃんがわたしの顔を見てうなずいて笑う。わたしはお礼を言う。いつだったか、路上でわたしを見かけたと言って、タクシーの中からサノさんが電話をくれたことがある。そのとき「遊びに行く」と言ってくれたのを覚えていた。サノさんとは二回しか会ったことがなかったけれど、何となく「本当なのだろうな」と思った。だから実は、今日来てくれるような気がしていたのだ。言わなかったけれど。
「3か月ここに居ましたけど、結局イベントも何もやらずじまいで。最後も消えるように終わろうかと……」
そう言うとサノさんが
「ええんちゃう、それで。小説家なんやから」
と言った。


久美子さんが来て、藤本さんが来た。太田さんが帰り、サノさんとマリンちゃんが帰った。茜ちゃんはそのあいだ、たくさんお茶を淹れてくれた。


そろそろ帰ろうか、と思ってカップを洗っていたら、藤本さんが「あのう」と遠慮がちに声をかけてきた。
「イロウカイを、やろうかと」
えっ? とわたしは声をあげる。
「土門さん、ここに来るのもそろそろおしまいですし」
そのときやっと「慰労会」なのだと理解した。久美子さんと茜ちゃんが、にこにこしてこちらを見ている。わたしはなんだかどぎまぎして、カップを一所懸命洗った。

藤本さんが前の職場(彼は百貨店に勤めていた)で買ってきたという、おいしそうなパンを出してくれる。パリの有名なパン屋さんのパンらしい。
「これをバルミューダで焼いたら、間違いなく最高ですよ」
「えっ、そうなんですか? バルミューダってそんなにすごいんですか?」
藤本さんと茜ちゃんの声がキッチンから聴こえる。茜ちゃんが、今日何杯目なのかしれないお茶をまた淹れてくれた。

バルミューダで焼いたデニッシュは確かに最高だった。とても美味しかったので、藤本さんに「よいものをたくさん知っているんですね」と言ったら、「百貨店で働いていると、どんどんお金がなくなっちゃいますよ」と笑った。だけどそれはとても豊かなことだと思う。
「パリのパン屋さんのパンが食べられるなんてなあ……」
と呟くと、久美子さんが笑って
「今度行こうよ、パリ」
と言った。驚いて、とっさにこんな答えが口に出た。
「パリなんて、世界が違う」
ふらんすに行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し。
でも、そんなことはないんだろうと思う。久美子さんはフランスへ行き、藤本さんは「よいもの」を手に入れる。茜ちゃんはバルミューダで焼いたパンを、おいしそうに食べている。

「小説を書くって、きっと大変ですよね」
茜ちゃんが言った。わたしは情けなくうなずき、きのう編集の柳下さんに電話で弱音を吐いた話をした。
「そしたら、柳下さんは何て言ったんですか?」
藤本さんが聞き、わたしは答える。
「『辛いけど、書くしかないよね』って」
そう言うと、三人とも「ああ……」と言って苦笑した。


ふと外を見ると、眼鏡をかけた線の細い女性が立っていた。わたしは初めて会ったのに、すぐに「植松さんだ」と気づく。それまでに岩崎君を通して、植松さんの書いたものを読ませてもらっていた。「土門さんに会いたがっているよ」と、岩崎君が何度も教えてくれた。

「よかった、まだ居てくださって」
植松さんはそう言って、にっこり笑った。小さな手提げ鞄、と思う。わたしはこの人を知っているなと。書いたものを読んだからだろうか。それとも、書いたものを読んでもらっていたからだろうか。なんだか、会ったこともない文通相手に初めて会ったような、そんな感覚だった。この人のことをわたしは知っているし、わたしのことをこの人は知っているなと思った。
彼女は「今は、小説を書いていらっしゃるんですね?」と言い、実にいろいろなことをわたしに尋ねた。わたしは聞かれるがままに喋った。植松さんは眼鏡のレンズの奥からじっとわたしの目を見ながら、すごく愉しそうに話を聞いてくれた。聞き取れないところはちゃんと聞き直し、理解できたら嬉しそうに笑う。

「土門さんは、ご自分の中の女性性を、強く感じて生きてらっしゃるんでしょうか」

わたしはそのとき、少し答えに詰まった。そして、「そうかもしれません」と言った。

植松さんは「読んでみたいなあ」と、にっこり笑った。