文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/05/20(日)

ゆうべは夜ご飯を食べたらものすごくしんどくなって、8時過ぎにはベッドに入った。寝室にPCを持って入って「書かないと」と思ったけれどからだがそれを拒否してる感じで手が伸びない。そうか書きたくないときもあるのだな、と思った。そういうときはどういうときか? 編集者は「なんだか落ち着いている」と言う。「書けていないから落ち着いているのかな」と。なるほど、そうかもしれない。小説を書けていないとき、わたしは落ち着いているのかもしれない。
電気を点けたまま眠ってしまった。途中で何度も起きた。起きるたびに「書かないと」と思う。そしてまた浅く眠る。


今朝は編集者に会った。
「知性について因数分解をしているんだ」と彼は言う。知性を因数分解すると、体力が大きな割合を占めると思うと言う。

わたしは小説のことを考えていた。たとえ駄文であったとしても、小説を「書いている」時間が長ければ長いに越したことはないと思う。才能だとかインスピレーションだとか以前の問題だ。単純に量。ずっとボールに触るとか、ずっと素振りをするとか、そういうことだと思うのだ。どれくらいの時間、小説に触れていられるか。
わたしは知性の要素として「好奇心は?」と聞いた。彼は「好奇心も、とても大きいね」と言った。そしてやはりわたしは小説について考えた。小説に、いつも新しい気持ちで、長く触れること。


それからふたりで、互いを麺類にたとえると何かという話をした。
わたしは彼を「噛み切るのにも体力が必要なくらいコシのあるうどん」と言い、彼はわたしを「おいしいけれど消化の悪い盛岡冷麺」と言った。
わたしが彼をそう表現したのは、噛み切ったあとに自分自身が変わっている、ということを思ったからである。彼の言葉を咀嚼し終わったあとに、わたしの顎の筋肉は以前よりもずっと鍛えられている。
わたしの場合は、すいすい食べたあとにもたれるということだから、食べたことを後悔してしまうのかもしれないなと思った。



帰ってから小説を書いた。小説を書いたら、涙が出た。
彼の言ったことがその通りになってしまって笑ってしまう。小説を書くとわたしは、安定を失う。
きっとそれは、ごまかせなくなるということと同義なのだろう。書け書けわたし。