文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/05/21(月)

書いていると「もう出ない」ということがあって、そういうときにはわたしは本を読む。見開いたページの言葉を読み、ページをめくっているうちに、数分くらいすると書きたくなる、いや書けるような気になってくる。そして書いて、止まって、読んで、書いて、その繰り返しだ。

振り向かずに前へ前へ進むような書き方をしていると、自分が書いているものがどういったものなのかわからないので不安だ。そして次の日にまた頭から読み「ああこういうことを書いていたのか」と思うのだけど、書き始めると忘れてしまう。

ずっと家にいて書いていた。五月なのに今年はまだ少し肌寒い。窓から風がときおりゆるやかに入ってきて、カーテンが揺れてきれいだと思う。外で、近所のおばさんが自転車に乗って出かけ、帰ってきてまた停める。わたしはその間、書いたり読んだりしている。

今日見開いたページにはこんな言葉があった。
「ものを書く時は、どんなに孤独でも孤独すぎることはない」
カフカの言葉だそうだ。

途方もない。だけれど、少しずつ進んでいる。書いているということは読まれる可能性をもつということだ。だから、どんなに途方がなくても、孤独すぎることはない。


昨日『かぐや姫の物語』を半分だけ観た。子供が寝る時間まで観たいというので、1時間だけ観たのである。その1時間、わたしは最初から停止ボタンを押すまでずっと泣きどおしだった。涙があとからあとから流れて、子供が心配そうにわたしの顔を見た。

失ってしまったものがそこにあったからかもしれない。あんなにのびやかな命をわたしは持っていたんだったろうか。失わされてしまったもの、みずから失ったもの、あらかじめ失われていたもの。さみしいとか、かなしいとか、せつないとか、よくわからない。ただ、失ってしまったものがここにあるなと思って、それですごく泣いてしまった。