文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/05/30(水)

編集者が、彼の書いた文章を送ってくれた。
「改稿について参考になれば」と言って、初稿と第三稿を。
データを見てみると、第三稿のほうがボリュームが少ない。刈り取った、ということなのだろう。

わたしはその文章をゆっくり読んだ。人の改稿前・改稿後の文章を読むのは初めてだ。なるほど、第三稿のほうが、軸に沿って枝葉や揺れがなくなっている気がした。

「10という量の文章は、9を増やして10ではなく、20を刈り込んで10にする」
のが改稿なのだと言う。だから初稿ではがんがん書くべしということなのだ。それを目の当たりにした。編集者の初稿は、書きたいものを遠慮せずがんがん書いたという筆跡があった。「ここまでやっていいんだな」というくらい、彼の初稿は勢いがよく、大きな波みたいだった。
恐れないで書くことだ。考えずに手を動かすことだ。

「もったいないけど、世に出ない文章が存在するんだ。僕はそれが読みたくて編集者をしているよ」
それはよく彼の言う言葉である。わたしも初めてそれを実感することができた。彼の初稿に書かれ、第三稿では消えていた、その文章がわたしは好きだなと思った。
手先だけではなく、からだ全体で書かれた文章は心を打つ。彼はよくわたしの文章をそう形容してくれるけれど、わたしも彼の文章にそう感じた。鼓舞されたというのか。なんだか元気が出た。


それで今日も小説を書いた。初稿を否定するのではなく、刈り込む感じで。そうしていると、継ぎ足したくなるところがある。ここは言及せねば、というところだ。そこに関しては、おそれないでどんどん書こう、と思って書いた。

ああ、時間がかかる!時間がかかって、あっという間に夕方だ。
「できるかな」と独り言が出る。「できる」と、その独り言に返事をする。毎日その繰り返し。


今日、午前中にこの記事を公開したら、ひとりの女性からメールが届いた。

www.e-aidem.com


「どもんさんの文章を読んで、ああ私のことだ、と思ってしまった」と、そこには書いてあった。

「個人的な思いを根底までつきつめると、誰もが「私のことだ」と思える領域までたどり着く」
と彼女は言う。


ああ、それがこの小説でもできたらいい。
自分の奥底を掘り、じっと見つめる、そんな文章を書きたい。そうすれば、きっと誰かの水流にも届くはずだから。