文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/08/26(日)

日記を書くのはその日の夕方以降から翌日の昼まででないといけない。
となんとなく思っていた節があるが、そんなこともないんじゃないかと思ったので、今日の日記を今(14時12分)書いている。

近所の保育園で地蔵盆が行われているが、一歳の次男が盛大にぐずりだし、家に連れ帰ると昼食もとらずに眠ってしまった。眠かったのだと思う。


ある児童文学賞のキャッチコピーの作成をお仕事として頼まれたので、次男が眠っているすきに、いくつかパソコンに向かって考えてみた。以前取材したデザイナーの方が「コピーライターがもったいぶってコピー案を出すのが腹立つ」とおっしゃっていて、本当にそうだな、と思ったのを思い出す。それで、自分が本当に好きなものだけ書こう、と思った。いつもそう思っているけれど、自分が本当に好きなものだけ書くというのは難しいのだ。腕よりも(ここでない腕を求めてもしかたない)コンディションの問題が大きい。

いくつか書いてみて、昼食を食べ、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を読む。ゆうべから読み始めたのだけど、とてもおもしろく、続きが読みたいと思っていたのだ。続きが読みたいと思う本に出会えることは、うれしい。
児童文学というのが苦手だった。絵本も苦手だった。つまらないと思っていた。子供だからと言って、ばかにしていると。おとなにとって都合のいいことばかり言っていると(子供は、おろそかにされること、あなどられることに、とても敏感だ)。今思えば、貧困な文学体験だったのだろう。『星の王子さま』のことも、読んだこともないのに、子供向けに大人が書いた物語だと思っていた。でも、読むと違った。サン=テグジュペリは、子供を未熟な大人だとは思っていなかった。子供を、きちんとした人間として、敬意を払いながら書いていた。
だから読んでいて、わたしのなかの子供がその物語を受け入れたのを感じた。わたしのなかの子供に響く物語は、根源的で本質的で野蛮だ。きっとわたしはこの物語をなんども読むだろう。

次男がまだまだ起きないので、阿久津隆『読書の日記』を読む。阿久津さんはわたしと同い年の男性らしい。彼のことをまったく知らないのだが、ぱらぱらとめくってみて、いいなと思ったので買った。とても分厚い本である。表紙がくまのぬいぐるみで、かわいい。読んでいると腕が疲れてくるのもいい。

読んでいたら、フォークナーの小説の引用が多数されてあった。わたしは、引用を読むのが好きである。ぱつ、と、世界の茎の一部を切る感じ。わたしはその断面を覗き込む。全体を把握することはできないが、生々しいまでの一部を見る。その感じがとても好きで、みんなにもっと引用をしてほしいと思っている。

「読んでも読んでも、何が起こっているのかさっぱりわからなくて、このわからなさは尋常でないと思いながら読んでいる。不正確な描写が、あるいは相矛盾した描写が、何度も何度も繰り返されながらぼんやりとした輪郭を描くような、そんな感触がある。消さないでなんども書き足すスケッチみたいな、そんな感触というか、もしかしたらただの読解力不足というか集中していないだけなのかもしれないけれど」

次男はまだ起きない。