文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/10/03(水)

打ち合わせで四条に行く用事があったので、約束前に四条烏丸大垣書店へ寄る。
そこで平野啓一郎の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』という新書を買った。
今朝、長野のわざわざというお店の代表取締役である平田さんの記事を読んでいたら、この本のことが書かれていたのだ。

「私はこの本を読んで、本当に心が楽になった。喋る自分も、喋らない自分も、どちらも本当の自分自身であるということをやっと認めることができたのだ。よい自分でいたいと思うことが苦しくなくなったし、そうでない場合は付き合う人間を減らしたり切ったりすることで、より自分らしく生きられるということがわかった。自分自身をより好きになれる素晴らしい考え方だなと思った。ぜひ皆さんにもこの本を読んで欲しいと思う」
引用元:代表取締役としての分人〜わざわざ平田の出張日記|わざわざ平田の移住日記|平田はる香|cakes(ケイクス)

とてもまっすぐで素直な平田さんの言葉に、わたしもまっすぐ素直に「読んでみよう」と思った。そして、打ち合わせ相手を待っている間、最初の部分を読んだ。

前書きで、平野啓一郎さんは最小単位である「個人」はさらに「分人」として分けられるのではないか、と書いていた。

「分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。(中略)私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される」
引用元:平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』講談社現代新書より

なるほどなあと思いながらユースベリーティーを飲む。最近わたしはスタバでこればかり飲んでいる。そして打ち合わせの相手の方が来られて、笑ったり真面目な話をしたりしながら「これもまた分人のひとりか」と自分のことを思った。

じゃあ、どの分人の自分がいちばん居心地がいいのだろうとも思う。
答えは「わからない」だった。わたしはどの分人も、あるところは満たされ、あるところは満たされていないと思った。だから、その分人のなかを行ったり来たりしているのかもしれない。

ただ、小説に接する「わたし」という分人だけは、少しだけ違うなと思う。その「わたし」だけは他の「わたし」よりも圧倒的に欠けながらも完全体のように思うのだ。
原稿用紙の前で、わたしは単なる一本の鉛筆である。書けば芯が磨耗していくし、削れば短くなっていく。ときどき芯は折れ、書いているわたしの手の横腹は汚れる。そんなちっぽけな一本の鉛筆でしかない。そしてその状態は、その状態のままで完全である。

このまま鉛筆として消えてなくなれたらいいのに、と思うときがある。
その瞬間を、わたしは幸せと呼んでいる。