文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/11/12(月)

今朝は持久走をする夢を見た。女子は5周走らねばならないのだが、途中で自分が3周走ったのか4周走ったのかわからなくなるといういやな夢だった。やけになったように夜の商店街をすごく速く走った。途中でへばってもいいやというように。どうせ何周走ってるのかもうわからないのだから、と。

出張から帰ってくると2,3日は、部屋に置かれた着替えが入ったままのカバンだとか、その中に入れている領収証でパンパンになった財布だとか、まだ旅がわたしにこびりついている感じがする。午前は税理士さんと話し、それを機会にいろいろと事務仕事を終わらせながら、徐々に旅を肌から落としていく。少しずつ日常に戻るのは気持ちがいい。日常に戻っていく作業は、経験した非日常をなじませていく作業だ。そうすることで、やっと文章を書くことができる。

今日は嵐電のエッセイに取り掛かろうとしたが、なかなか集中できない。何を書くべきか、まだ見つかっていないのだ。うなりながらそばにあった雑誌『& Premiun』をめくる。画家のマリー・ローランサンが頬杖をついてこちらを見ている写真が載っていた。彼女は遺言に、自分が死ぬときには純白のドレスに身を包み、胸には赤いバラを一輪、それからかつての恋人・アポリネールからもらった手紙を抱きたいということを書いていたのだという。そして、死後はそのとおりに葬られた。
わたしはその記事を読み、思わず感嘆する。
彼女は自分の王国を持っている。その王女である彼女は、死後手厚く葬られる。自らの手と、希望によって。彼女のあるじは彼女、ただひとりなのだ。

「天才の男が私を怖気づけさせたとしても、女性的なすべてでもって私は完璧に気楽になれるのよ」

そんなローランサンの言葉に目が釘付けになり、何度も読み返す。わたしは、女性をこんなによいものとしてあらわす言葉を見たことがない。

そう思いながら自分のほおを触った。ほおは柔らかく、肌はうすく、そこには白粉と頬紅がのっている。

生まれ変わってもわたしはきっと、神様の前で「女がいい」と言うのだろう。どうしてと聞かれてもわからない。ただ、女としてまた生きてみたいから、と言うのだろう。