文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/12/08(土)

中高生の頃母のやっているスナックに呼ばれることがたびたびあった。そこに行くとお客さんから一晩で2,3万円のお小遣いがもらえるので行っていたのだが、母はいつもそのお金のことを「あんたにじゃなくわたしにくれている」と言っていた。「わたしの娘があんたじゃけえくれているんよ」と。その通りだと思う。ぶすっと突っ立つ色気も愛想もない女子中高生に彼らがお金をくれるのは、わたしの母がこのスナックのママだからだ。わたしはいつも全額母に渡した。すると母は、半額わたしに返してくれた。半額はわたしの貯金に充てると言っていたが、多分本当なのだと思う。彼女はわたしを大学にやるためこつこつと貯金をしていた。
スナックに行かなくなってしまったのは、高校生の頃に母のお客さんに「蘭ちゃんは鉛筆の持ち方が正しいないね」と言われてからだった。「お母さんが韓国人じゃけえよう教えんのじゃろう。日本人は鉛筆の持ち方ひとつにも礼儀作法じゃ言うてこだわるけえの」と。それを聞いた母は弱々しく笑いながら「ええけえ社長歌ってよ」とマイクを渡してお客さんの口を塞いだ。わたしは彼の歌に手拍子を鳴らしながら、もうここに来るのはやめようと思った。帰りに一万円をもらったけど、手拍子代だと思った。わたしの手拍子は一万円の価値がある。そう思わないと何かが削られそうだった。

今日、取材に行ったトークイベントでふとそのことを思い出した。メモ帳に文字を書きながら、いまだにペンの持ち方が正しくないなということを思った。
お客さんにああ言われたとき、絶対にわたしはこの鉛筆の持ち方を直さない、一生直さない、この持ち方のままめちゃくちゃ美しい文章を書いてやる、と思ったのを覚えている。この鉛筆の持ち方のまま、お母さんが自慢できる娘になってやると。

でもそんなこと忘れていた。忘れていていいのだ。
あの「社長」がくれた一万円は多分、わたしの食費だか学費だかに充てられ、わたしは健やかにそれを食べ、学び、おとなになった。

それでいい。忘れていてよかった。

登壇者の言葉をとらまえる、矯正されたことのない自分の癖字を見ながら、20年後のわたしはそんなことを思った。