文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/06/15(土)

是枝監督の『万引き家族』を観る。ずっと観よう観ようと思いながら、なかなか観ることができなかった。学生のころ初めて是枝作品を観たときに、それは『誰も知らない』だったのだけど、よく研がれたぴかぴかのナイフですっと消えない傷をつけられたみたいな気持ちになって、「もうこの映画は二度と観ることができないな」と思ったのを覚えていたので。彼の作品では『歩いても歩いても』『空気人形』『花よりもなほ』を観たけれど、『誰も知らない』のような感じはきっとないだろう、と確認してから観ていた。『そして父になる』と『万引き家族』はそんな「感じ」があったので観られなかった。でもなんとなく、今観なくては、と思って、観た。

観ているあいだ、何かずっと苛立たしさがあった。誰に対する苛立たしさなのだろうとずっと考えていたのだけど、多分、「家族とは何なのか」という、この映画に何度も繰り返し問われてきたテーマにたいしてだったのではないかと思う。

家族がなんだよ。血縁が、絆がなんだよ。母ちゃん、父ちゃんと呼べないからってなんだよ。どうでもいいよそんなこと。それよりも歯が抜けたら屋根の上に投げるとか、見えない花火の音をみんなで聴くとか、お風呂に水着を着たまま入るのを許すとか、ばあちゃんが足の冷たさに気づいてあげるとか、みんなで海に行って笑ったとか、そういうほうが重要だろう。万引きはいいけど車上荒らしはだめだとか、俺はいいけど妹はだめだとか、ひとりの男の子が持つ自分なりの「正しさ」こそが重要だろう。「家族とは何なのか」なんてどうでもいい。そんなことより、信代がなぜ「りん」と名付けたのか。どの漢字のことを言っていたのか、そのほうがよほど重要だ。

おそらく、この苛立ちこそが、「家族とは何なのか」という問いにたいする自分の答えなのだと思う。でも、なんでこんなに腹が立って泣いてしまったのか、自分ではまだよくわからない。

「りん」は「鈴」じゃない、と信代は言った。
「倫」だったのか、「凛」だったのか。おそらく後者なんじゃないかと思うけれど、わたしはひらがなの「りん」がいちばん良いなと思う。意味なんていらない。ただ名付けられたときの、あの温かい感じさえあれば。