文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/05/26(土)

北加賀屋という駅で降りる。
そのひとつ先の住之江公園駅にはむかし営業で何度か行ったことがある。四つ橋線の終点駅であるそこは、行くといつも寂しい感じがした。終点駅は、でもそこに行くと実は終点駅ではなくどこかに必ず繋がっている。そのことを忘れると、終点駅はいつも寂しい。

歩いたことのない街を歩くのは楽しい。駅を出るとすぐ「蘭」という喫茶店があった。迷いながら歩いていくと、「吉四六」という食堂や「想い(うもい、と読むようだ)」というスナックもあって、この街の店は名前が良いなと思った。もうひとついい名前を見たのだけど忘れた。いろいろな名前があるのは、おもしろい。
なんだか懐かしい感じがする、と思ったら水のにおいがした。見ると、川があった。わたしがこれから向かう場所は造船所跡地だった。だからか、と思う。宿場の前では中国人の男の子たちが大きな身振りで何か話している。作業着を着て小脇に競馬新聞を抱えたおじさんが、幼女の頭を遠慮なくなぜている。化粧の濃い母親が、愛想良く笑いながら時折ふと真顔になる。この感じをわたしはよくよく知っている。ここは少し故郷に似ている。

そこでわたしは、自分が書いた本を売った。『100年後あなたもわたしもいない日に」は今日25冊売れた。共著者の寺田マユミさんが助っ人として来てくれて、看板を作ってきてくれた。
「バッジも作った」「センスも作った」「買い物袋も持ってきた」「栄養ドリンクも買ってきた」と、いろいろなものを出してくれる。わたしは雨水を浴びるようにマユミさんのプレゼントを受け取った。

目の前で本を開く人には、声をかけるべきかどうかよくわからない。それで、声をかけたりかけなかったりした。そのかわり、彼らの発する言葉にはよくよく耳をすませた。
そのうちのひとりに、
「なんてうつくしい本なんやろう」
と言ったひとがいた。


こういうブックフェアにて本を買うことがわたしはあまり得意でない。
お店の人の目の前で立ち読みをする、というのがうまくできないのだ。手にとるとすべて買わねばならないような気がしてくる。自分が店番をしているときには、ちっともそんなこと気にしないのに。

でも、夏葉社さんという出版社のブースでは別だった。わたしはそこで、たっぷり時間を過ごした。最初から「何か1冊買おう」と決めていたからかもしれない。テーブルの上にはひっそりと(テーブルの上なのにひっそりとなのだ)10くらいのタイトルの本が並んでいて、そのどの佇まいもすごくよかった。ああわたしはここで必ず何か買う、と思った。きっと明日も買う。
それで吉田篤弘『神様のいる街』を買った。

帰り道、始発駅の淀屋橋駅から京阪電車に乗る。これから終点の出町柳駅まで走る。その小一時間、わたしは『神様のいる街』を読んだ。
読みながら、このひととわたしはとてもよく似ていると思った。「もしかしたらみなそう思うのかもしれない」と思いつつ、読めば読むほどそう思うので、「いや、わたしだけだ」と思わざるをえなかった。


この何年か、創作をつづけながら、何度も「誰か助けてくれ」と小さく叫んできた。しかし、自分の創作を他人が助けてくれるはずがない。しかし、膨大に残されたメモを読んでいたら、そこに過去の自分がまだ息づいていて、向こうからしてみれば「未来の自分」である現在の自分に、「忘れるな」「こんなふうに考えた」「いいことを思いついたぞ」「いつかきっと書こう」「書いてみたい」「そのときが来たらね」ーーーそう云っていた。
他人は助けてくれないけれど、過去の自分が、いまの自分に、「書くことは山ほどある」と小さく叫んでいた。
吉田篤弘『神様のいる街』)