文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/09/13(木)

「どんな1日であったとしても、最後には『眠る』という幸福が待っている」

この言葉を読んだのは、中学くらいのときだったと思う。
出典はもう忘れてしまったけれど、この言葉(言い回しはちがうかもしれない)は覚えている。

わけもなく気分が塞ぐときがわたしにはよくあって、その度にこの言葉を頭のなかでつぶやく。眠るだけなら、わたしにだってできるじゃないか。何も難しいことではない。誰かにお願いしなくても、うまくやろうとしなくても、眠ることならできる。それは、他者に依存することなく、自分だけの力で確実に手に入れられる「幸福」だ。



今日、お昼にカツ丼を食べようと思いいたった。
冷凍庫には義母が揚げて凍らせてくれたとんかつがいくつかあって、それを解凍してカツ丼にしようと考えたのである。何度か作ったことのあるカツ丼だが、わたしは物覚えが悪いので作り方をいつも忘れる。
「カツ丼 レシピ」で検索して、一番上に出てきたクックパッドのレシピで作り始めた。

できあがったカツ丼は全然おいしくなくて驚いた。煮詰め過ぎてしまったのか味は濃すぎるし、それ以前にレンジで温めすぎてしまったのかとんかつが硬かった。
3分の1ほど残し、麦茶を飲んだ。とても悲しい、というか、情けない気持ちだった。わたしは料理が下手なのだ。

わたしには料理コンプレックスがある。
自分が下手なので、上手な人を見ると眩しくてしかたがないのである。

今日、このカツ丼を食べてわかった。
わたしが料理が上手な人をとても羨ましいと思うのは、彼らが自分の手で「幸福」を作り出すことができるからなのだ。
しかも、より高い確度で。何に依存することもなく。彼らは食材を自分の手で「幸福」に変えてしまう。

この「確度が高い」「何に依存することもない」「毎日できる」というのが、わたしにはとても羨ましいのだと思う。


『さるでもできるおいしい料理』というレシピ本があったとしよう。
わたしはそれを読んでも、きっとおいしい料理を作ることができない。
その通りに作っているはずなのにできないのは、わたしが本当の意味で「ルールを理解していない」からだ。

なぜこんなに、わからないことだらけなのだろう。
たまにうまく作れても、なぜそれがうまく作れたのかわからない。
だからいつも不安なのだ。

法則性を見出せていないのだろうか?
見出しても、それが馴染まないのだろうか?
偶然性に翻弄されるのは疲れる。

「家に帰ったらおいしいご飯が待っている」というのは、「家に帰れば少なくとも『おいしい』という幸福が待っている」ということなのだ。

おそらくその積み重ねの上で、人は生きていくルールを見出すように思う。
ああこのようにして人は生きているのだというルール。

わたしは、ルールを理解できている人が本当に羨ましい。
自分とはまったくちがう場所にいるように思う。

生まれ変われるなら、おいしい料理を作れる人になりたい。