文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/11/03(土)

生まれて初めてチャーハンを作った。エビと、玉ねぎと、豆苗と、卵のチャーハン。炊きたてのご飯を使ったので、少しべちゃっとしてしまった。塩と醤油と胡椒で味付けをしたあと、味見をしたら全然味がしなかったので、鶏がらスープの素をいくらか入れた。長男を呼び「味見してみて」とお願いすると、彼は熱そうに一口食べてから「めちゃめちゃうまい」と言ってくれた。長男も次男もおいしそうに大盛りのチャーハンを平らげた。3人前なのに冷凍エビを一袋ざあっと入れたので、食べさせすぎだろうか、食べさせすぎるとどうにかなったりしないだろうかとふと心配になったが、「エビがいっぱいでうれしい」と長男が嬉しそうに頬張るので、途中で減らそうと言うこともできず、よしとした。長男がお皿を下げるとき「ママのさいこうけっさくや」と言った。

これまでチャーハンを作らなかったのは、自分がチャーハンを作ってはいけないと思っていたからだ。まわりには常に誰かしら自分よりもチャーハンを作るのが上手なひとがいるので、そのひとに任せるのが良いと思っていた。ひとりのときにチャーハンを食べたくならなかったかというと言うとなったのだが、自分にチャーハンが作れるとは到底思えなかった。自分がそれを禁じていたからである。

このあいだ「暮しの手帖」の最新号を買った。特集は「料理力って何でしょう?」だ。ぱらりとめくると、ホルトハウス房子さんが「本当の美味しさって、自分の舌を信じなければ作れないものじゃないかしら」と言って、具なしラーメンのレシピを載せていた。それを見てわたしは、「本当にそうだな」と思って、具なしラーメンの写真を眺めながらおなかを鳴らした。

それからチャーハンを作ったのだ。冷蔵庫にあるものを適当に選んで、卵が足りないと言って途中から足してまだらになったり、たまねぎはよく炒めなくてはと思って焦がしたりしたけれど、子供たちはもちろん、自分が残さず食べることができたのが嬉しかった。不恰好だけれど、確かにおいしかった。

小説の2章の改稿がひととおり終わったので、食事中にビールを一本飲む。
長男は食後におだんごを、わたしと次男はカステラをそれぞれ食べた。

2018/11/1(木)

取材で名古屋へ。名古屋駅で電車を待っていたら、一緒に仕事をしているフォトグラファーの方に声をかけられ、お久しぶりですねと席に座る。わたしが取材をしているとき、彼が写真を撮っているわけだが、彼がどんなふうに動いているのかまったく記憶にない。それってすごいことだなと思って「被写体が意識しないよう、もしかして気配を消していますか」と聞いたら、「そうかもしれないですね」と彼は言い、それから「写真を撮るのって、ボールをキャッチするのに似ています」と言った。「ここだというところに、自分から動いて、受け取る感じです」

それから彼は、写真を撮る目は「虫とか塵の目」だと言った。
「そこに、こういうのを撮ってやろう、みたいな自意識はないんです。心地良いなとだけ感じる、自我のない虫とか塵の目、みたいな」

だから、ときどき自分でもびっくりするようなのを撮れることがある、と彼は言った。
「初めて写真を撮ったとき、そういう目で世界を見ることができるんだっていうことを知りました。それがなんだか、とても嬉しかったんですよね」

なぜわたしが彼の写真を好きなのかわかった気がした。彼の写真が、虫が見た風景だからかもしれない。虫が光を浴びながら、その中にある海や、葉っぱや、子どもを見ている。そこに言葉はなくって、あるのかもしれないけれどそれは虫にとってただの心地よい音でしかなくて、だからとても静かで。

なんだかなつかしい。そう思うのは、かつて自分が虫だったときの、記憶なのかもしれない。

2018/10/31(水)

深夜にふと目が覚めて、iPhoneを見たら編集者からメッセージが来ていた。「最近、日記の翌日更新をさぼっているね?」肝を冷やし、また布団をかぶる。読んでくれているんだな、と思う。この日記は誰も読んでいないと思っていた、なんとなく。このあいだ、義妹がこの日記を読んだとLINEをくれたところなのに。「読んだよ」という印の☆マークをくれる人だっているのに。ページビュー数を見れば訪問してくれる人がいることもわかるのに。それなのに、誰も読んでいないと思ってしまうのはなぜなんだろう。

取材に行き、その帰りにマクドナルドで日記を書いた。日記ってなんだろうなと思う。これだけ書き続けてもよくわからない。100円の紅茶を頼んだら、お湯が入った紙カップにリプトンのティーバッグを渡された。半分残して捨ててしまった。

帰って、小説の2章の途中まで改稿する。少しずつ、薄皮をはがすように、わかってきているような気がする。

2018/10/30(火)

プールに週に一度通っている。自分でも、泳ぐのが少しうまくなったということがわかる。50メートルを一度泳ぐのがやっとだったけれど、今は1日に何度かそれを泳ぐことができる。プールに行くのが憂鬱だ。面倒臭い。でも、泳いだら楽しい。何事も始めるまでが大変で、始まってしまえばおもしろいものなのかもしれない。

きのう次男の付き添いで行った耳鼻科の待合室で、朝日新聞を読んでいたら、樹木希林の家族写真が一面に写った広告があった。樹木希林の言葉が「/」で区切られていくつか並んでいた。
そのうちにこんな言葉があった。
「楽しむのではなく、面白がることよ。中に入って面白がるの。面白がらなきゃやってけないもの、この世の中」

なんだかこの言葉が心に残った。わたしはプールのことを考える。プールの面白さは、プールのなかでしかわからない。だから、わたしはプールのなかに入るしかない。

小説も同じだなと思う。原稿を前にするまでは怖気付いて怯えていたけれど、いざ原稿を広げ小説のなかに入ると、あとは手を動かすだけだった。水をかくように、小説のなかを泳ぐ。それは小説の外にいてはできないことだ。なかに入らなくては。
1章を泳いで、陸に上がる。疲労困憊。でも、そこで見た風景が気持ちよかった。

2018/10/29(月)

四条烏丸スターバックスで編集者と会う。長編小説『戦争と五人の女』の打ち合わせ。この打ち合わせが始まる前に、彼はmessengerで「エウレカ!」と叫んでいた。「エウレカ」とは何かな?と思い調べてみると、何かを発見したときに使われる感嘆詞であるらしい。打ち合わせで会った彼は、その発見したアイデアについてわたしに話してくれた。

目の前の分厚い原稿(初稿と二稿)を見ながら「わたしの小説だ」と思う。久しぶりに見たわたしの小説。まるで生き別れた自分の分身を久しぶりに見たようで、向こうからは今の自分はどう見えているだろうかと思う。少し涙が出そうになった。

編集者はわたしよりもずっとこの小説のことを読み込んでいて、この小説に含まれたテーマを丁寧に正確に読み解いてくれる。そのことが本当にありがたい。ひとつのテーマが見えると、小説がまた解像度を上げたような気がした。手が少しぴりっとした。そのことが嬉しかったけれど、もちろん怖気付いてもいる。だけど、書くしかない。ここにないことは書かなくていい。ここにあることを書けばいい。

自分から生まれたのに、自分のものではないみたいだ。小説はそういうものなのかもしれない。手から生まれたはずなのに手に負えない。

「小説はすでに君のなかにある」
編集者はいつもそう言う。彼がそう思うのならそうなのだと思う。わたしの手はその産道でしかない。それでいい。産める限り、産みたい。

2018/10/28(日)

映画『ハイフィデリティ』を観る。主人公のロブは恋人のローラに振られるわけだけど、その振られっぷりがすごくよかった。悲しくて悔しくて不可解でとてもじゃないけれど受け入れられなくて、それはもう無様に執着し、抗議し、逡巡し、怒り、泣く。その苦しみっぷりがすごくよかった。こうでなくちゃと思う。それでいて、わたしもこうなんだと思う。それはあまり良いことではない。きれいに諦め、潔く去る、そんな女でいたいのに、わたしにはできない。みっともなく号泣して、胸をかきむしって、ぼろぼろになるまで苦しむ。

日常生活では「それはあまり良いことではない」けれど、映画の登場人物としてはそっちのほうがおもしろいなと思う。少し慰められた。