文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/06/17(月)

編集者と三条のスターバックスで、小説の改稿の打ち合わせ。久しぶりに原稿を見て、なんだか苦しくなり、「機嫌が悪い顔をしているね」と言われて、「機嫌が悪いんじゃなくてね」と言おうとしたら途中で泣いてしまった。
小説を書くのはこういう感じだった、と思う。自分の中で眠っていた感情が目を覚まして動き出すような感じで、「ああ、また始まるんだな」と思った。
「君は死ぬかなあ」と編集者が言う。「自殺をするときには連絡してね」と。
死にそうに見えるのかと聞いたら、「君の輪郭が薄くなっている」と言われた。

2019/06/16(日)

この土日はなぜかずっと眠たく、昼も夜も子供を寝かしつけながら自分も寝るという生活をしていた。スーパーとTSUTAYAに行った以外には、ほとんど外に出ていない。

夕方『オーシャンズ11』を観る。ひたすらにジョージ・クルーニーがかっこいい。観ながら、「わたしには無理だ」とつぶやいた。わたしにはこんな勇気も知恵も実行力もない。十何億に値する勇気や知恵や実行力なのだから当たり前か。
「俺のものだったか?」
と最後にジョージ・クルーニージュリア・ロバーツに言って、それも最高にかっこよかった。俺のものです。


2019/06/15(土)

是枝監督の『万引き家族』を観る。ずっと観よう観ようと思いながら、なかなか観ることができなかった。学生のころ初めて是枝作品を観たときに、それは『誰も知らない』だったのだけど、よく研がれたぴかぴかのナイフですっと消えない傷をつけられたみたいな気持ちになって、「もうこの映画は二度と観ることができないな」と思ったのを覚えていたので。彼の作品では『歩いても歩いても』『空気人形』『花よりもなほ』を観たけれど、『誰も知らない』のような感じはきっとないだろう、と確認してから観ていた。『そして父になる』と『万引き家族』はそんな「感じ」があったので観られなかった。でもなんとなく、今観なくては、と思って、観た。

観ているあいだ、何かずっと苛立たしさがあった。誰に対する苛立たしさなのだろうとずっと考えていたのだけど、多分、「家族とは何なのか」という、この映画に何度も繰り返し問われてきたテーマにたいしてだったのではないかと思う。

家族がなんだよ。血縁が、絆がなんだよ。母ちゃん、父ちゃんと呼べないからってなんだよ。どうでもいいよそんなこと。それよりも歯が抜けたら屋根の上に投げるとか、見えない花火の音をみんなで聴くとか、お風呂に水着を着たまま入るのを許すとか、ばあちゃんが足の冷たさに気づいてあげるとか、みんなで海に行って笑ったとか、そういうほうが重要だろう。万引きはいいけど車上荒らしはだめだとか、俺はいいけど妹はだめだとか、ひとりの男の子が持つ自分なりの「正しさ」こそが重要だろう。「家族とは何なのか」なんてどうでもいい。そんなことより、信代がなぜ「りん」と名付けたのか。どの漢字のことを言っていたのか、そのほうがよほど重要だ。

おそらく、この苛立ちこそが、「家族とは何なのか」という問いにたいする自分の答えなのだと思う。でも、なんでこんなに腹が立って泣いてしまったのか、自分ではまだよくわからない。

「りん」は「鈴」じゃない、と信代は言った。
「倫」だったのか、「凛」だったのか。おそらく後者なんじゃないかと思うけれど、わたしはひらがなの「りん」がいちばん良いなと思う。意味なんていらない。ただ名付けられたときの、あの温かい感じさえあれば。

2019/06/14(金)

なんだか小忙しい1日。長男が頭痛で学校を休んだので、テレビを見ている横で原稿を書く。ときどき声をかけられたが「今仕事」と言って返事をしなかった。こういうとき、ちゃんと答えられる人になりたいが余裕がない。自分以外の人間がいるだけで気が散って集中できない。気づいたら昼の1時で、いつもなら適当におにぎりでも結んで食べてすませるのだが、目の前では7歳の子供がお腹をすかせている。それで自転車を飛ばしてパン屋さんにサンドイッチを買いに行った。カツサンド、ハムサンド、子供にはクロックムッシュも買う。帰ってきたら「おかえりー」と言われた。嬉しそうだ。わたしはサンドイッチをかじりながら文章を書く。子供はその様子を見ながらサンドイッチをかじっていた。「トマト残していい?」「いいよ」「とってほしいんだけど」「自分でとりなよ」「これなに?」「クロックムッシュ」「何が入ってるの?」「ハムとチーズ」そんなやりとりも、覚えているんだろうか。大人になった彼は。