文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/05/15(水)

朝からなんだか元気がなく、テレビ電話での打ち合わせをひとつ済ませてから、iPhoneは置いて財布だけ持って、鴨川を散歩した。川の水に日光が反射してきらきらしていて、五月の緑はどこまでも鮮やかに続いている。
その中を歩きながら、いろいろな言葉が頭に思いつくままにしていたら、ふと、10年位前にここで、「ここに帰ってくるのが夢だった」と言ったのを思い出した。大学を卒業して上京して、2年でギブアップして帰ってきたわたしは、ずっとずっと鴨川を散歩するのが夢だったのだ。観光でもなく、帰省でもなく、住んでいる人間としてまた鴨川を散歩するのがあの頃のわたしの夢だった。

あの頃のわたしの夢のなかに今のわたしは立っていて、なんだかしょんぼりしている。贅沢なもんだよと昔の自分が言っているみたいで、自分はひとりだけどひとりじゃないような気がした。いろいろなわたしが存在していて、それらは全部つながっている。

帰ったらちょっと復活していた。

2019/05/14(火)

最近からだがずっと重たくて、よくうずくまりそうになったり、倒れそうになったりする。貧血なんだろうか。それともうまく眠れていないのだろうか。毎晩たくさんの夢を見て、何度も起きる。
朝がいちばんひどく、昼間はまだましなので、きょうはプールで泳いできた。でも水泳も、いつもよりずっとしんどくて、なんだか非常に疲れてしまった。

ただぐっすり眠りたい。どうして夢なんか見るんだろう。夢のなかでまで、何か感じたり考えたりしたくない。

2019/05/13(月)

最近、立て続けに同世代でハーフの方の記事を読んだ。自分も韓国人と日本人のハーフだけど、それを読み、自分は自分をマイノリティだと思ったことはほぼなくて、でもアウトサイダーだとは思っていたなと思った。寂しさはあるけど怒りはない。母が「日本人は」と言ったり父が「韓国人は」と言ったりするとき、自分はその混血なのでどっちの意見にも「ふうん」としか言えなかった。そこにはやっぱり怒りはなく、わたしはわたしで定義されたいなぁという寂しさだけがほんのりあった。
冒頭の書き手の二人は二人とも、「自分って何だろう」と考える機会が多かったのだという。その気持ちは、もしかしたらこういうものかもしれない。わたしはわたしで定義されたいなぁという寂しさ。

今日は1日原稿を書いた。明日の午前には、編集者に一度見せることができるかもしれない。

2019/05/12(日)

「信じる」ことと「決める」ことの重要性について、自転車に乗りながら考えた。「信じる」ことと「決める」ことさえすれば、生きていくのがものすごく楽になるのではないか。だけど当然、そのふたつをするためには(しかも正しく、いい感じにするためには)、それ相応の精神力が必要となるので、鍛えなくてはいけないとは思う。信じる対象は他人ではなく自分であり、決めるのもまたそうだからだ。

そのふたつを合わせて「信じることを決める」ことが無敵なのかもしれないな、と信号待ちをしながら思う。
それで、信じることを決めよう、と思った。
もしもそれが裏切られたとしても、「信じる」ことで得られる精神的安定、高揚、充足といった、恩恵はあまりある。信じることを決めたのはわたしなのだから、もしうまくいかなくても誰を憎むこともない。
大丈夫。

そんなことを徒然と思いながら、自転車を漕ぐ。今日は夏のように暑い日だった。

2019/05/11(土)

これ本当に書けるのかよ、という原稿と向き合うのはこれが初めてではない。何度かそういう原稿と向き合ううちに、時間をかければ書けることを学んだ。だから書けない原稿はない(遅れる原稿はあるかもしれないが)。そして、原稿は書いたら最後、誰にも書けない、わたしにしか書けない唯一無二のものなのだ。そこまでたどり着けたら満点。いい原稿だったら120点。読者に何か残せたら200点。読者に何か残そうとか思うから書けなくなる。とにかく完成させることだ。あとは編集者が一緒にがんばってくれる。そう思えることはきっと幸せなんだろう。切り捨てられない、という安心感。書き手には、すごく大事なものだと思う。いや、作り手には。あとがないという状態は、健康によくない。そんなやり方はすぐに、だめになってしまうから。

そんなわけで、「これ本当に書けるのかよ」週間は続く。いつも思っているから、年間か。でもそういう原稿こそ、書けたときには本当に嬉しい。心臓には悪いけれど、大丈夫。書けば書ける。やれば終わる。そうでしょう?

2019/05/10(金)

昼間に30分だけプールに泳ぎに行く。今日はきつい日だった。からだに力が入っていたのだと思う。でも泳いで泳いで、泳ぎまくっていると、ふとからだから力が抜けた。もうこれ以上できない、というところまでいくと、自然と力が抜け、ふんわりと水に浮く。その瞬間が、すごく気持ちいい。

2019/05/09(木)

中原昌也の人生相談』という本を買ったのだけど今朝それが届いた。判型が面白くて、絵と題字がかわいい。人生相談のやりとりと、柱に映画の紹介が一個一個ついている。この映画があなたの悩みを解決してくれるよというのだ。そこもじっくり読んだが、すぐに読み終わった。人生相談というのはどうしておもしろいんだろう。時代を超えて愛される、新聞、ウェブ、書籍、雑誌、フリーペーパー、さまざまな媒体で取り扱われるコンテンツだ。

わたしもいっとき、積極的に人生相談にこたえていたときがある。
あれはうつをわずらってから寛解に向かうときだったろうか。仕事ができなくて、でも誰かの役に立ちたくて、でも継続的なコミュニケーションはしんどいときだった。お金はいらないから何かしたい。だからと言っておせっかいはしたくない。そういうときに、Yahoo知恵袋的な人生相談サイトはばっちりはまった。それは女性専用のサイトで、雰囲気が荒れていない優しい感じなのもわたしにはよかった。

誰からも相談に対する回答がない(つまり人気のない)人の相談ばかりに答えていた。一所懸命書くのだから、流し読みされるのではなく、ありがたがってもらいたいという下心もあったのだろう。失恋したての女子高生、自分に自信の持てない会社員、家族との折り合いがつかない中年女性、そんな人たちの相談に、自分なりの回答を書き込んだ。お礼を言われることもあったし、言われないこともあった。でもみんな、一様に「ハート」を送ってくれた。そのサイトには、ありがとうという気持ちを込めて「ハート」を送る文化があり、いつしかわたしのハートはたくさん溜まっていったのだが、そのハートが何に役立つのかは、ついぞわたしにはわからぬままだった。別に何もいらなかったので、調べる気持ちにもならなかった。ありがとう、元気が出ました、と言ってもらえたらそれで満足だった。言われなくても満足だった。

人の人生を客観的に見て、少しでも良いほうへ向かうにはどう動いたらいいのか一緒に考えるという作業に、自分自身が癒されていることに気づいた。たったひとつだと思ってしがみついていたわたしの人生が、ちっぽけでありふれたものに見えてくる。それは決して悪いものではない。たとえるなら、お土産屋さんで出会う安物のキラキラ光るキーホルダーや、わびしげにこちらを見るぬいぐるみや、日に褪せた星の砂の小瓶や、そういったなんだかあわれで愛おしく大切なものを見るような、そんな気分とすごく似ている。不意に涙ぐんで微笑んでしまいそうな、そんな感じ。

自分の人生がそういうふうに見えたとき、「ああ生きるのも悪くない」と思えた。
もうわたしは人生相談に回答しようとはまったく思わないけれど、またいつか、自分の人生にあっぷあっぷになったときには、匿名の回答者として存在しようとするのかもしれない。人気のない相談専門の。