文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/09/08(日)

午前、長男のプールの付き添い。待っている間、一冊本を読み終える。水野学さんの『センスは知識からはじまる』を読んだ。「センス」にまったく自信がないため、すがるような気持ちで読んだが、知識の積み重ねがセンスにつながると書いてあるのを読み、それならば努力次第でどうにかなるのかもしれない、と思う。

わたしは「努力」というものが割と好きだと思う。もともと育ちが悪いからかもしれない。育ちが悪いので、努力しがいがあるのだ。直すところがありすぎて、努力すればだいたいのことは今よりましになる。それが根っこに染み付いているので、努力は割と好きだ。良いものだと思う。たぶん、自分に期待していないんだろう。

午後は、保育園のバザーのレジュメ整理、メーリングリストの作成。そして、『100年後あなたもわたしもいない日に』の発送作業。なぜかこの週末でどどっと売れた。何があったのだろう。ありがたいことだ。

夜、『クィア・アイ』を見る。
「ブスは治らない」と悲観する依頼者に、カラモは「二度とそれを言うな」と言い、ジョナサンは「外見を変えるには確かに限界があるけれど、努力すれば自信がつくわ」と言った。そうだよね、とジョナサンの言葉に賛同する。だからやっぱり、努力は良いものなのだ。


2019/09/07(土)

午前、写真のワークショップで写真集を作る。糸綴じの手製本。穴を開けて、針で糸を通し、本を縫っていく。午後、10部限定で販売。同じく生徒だったおじさまの、カメラ仲間の方々が多く訪れ、そのうちのおひとりであるマダムがわたしの写真が表紙の一冊を買ってくださった。こういうふうにお友達が興味を持ってくれるのはうれしいよな、年をとってからもこういうお友達がいるというのは財産だなと思う。10部はすぐに売り切れたようだ。よかった。

夜、ナンバーガールのライブを観に、なんばまで向かう。ナンバーガールはわたしがこの世でいちばん愛しているバンドである。最初の一音で涙がこみ上げた。心の奥底からずるずるとわたしがこれまでに実際に感じてきた感情がひきずり出され、神社や、通学路や、側溝や、駐輪場や、夜の部屋や、そういったものが次々と思い起こされた。わたしはあらゆる場所にひとりで立っており、この音楽とともにあったなあと思った。17年だよ。17年が過ぎて、今なおこんなにかっこいいなんて。本当にすごい。わたしにこんなに好きなバンドがあってよかった。

2019/09/06(金)

取材のため嵐電の撮影所前駅へ。すごく暑かった。

夜、水野学さんの著書を読んでいたら、「「美しい」という感情は基本的に未来でなく過去に根差している」という言葉があった。なるほど、と思う。確かに、心を動かされるのは、むかし確かにあった感覚の記憶が呼び起こされた時かもしれない。「美しい」は既視感? 懐かしさ?

2019/09/05(木)

だいぶ気分はましになった。やはりなにごとも素直、正直がいちばんだなと思う。自分の体調や気分を抑え込むと、ろくなことがない。あとから自分に報復されてしまう。

今日は昼に1時間、お茶をしに行った。左京区の茶房にある女性が来られていて、1時間弱無言で相対し、中国茶を淹れてくれる。わたしはお茶にはまったく詳しくなく、その女性とも初対面であったが、最初は緊張していたものの、徐々に心がほぐれてきた。冷房のかかっていない日本家屋、開け放した窓から、庭をなぞって風が入ってくる。虫の音も聴こえた。ああ、わたしは、旅をしているなと思った。

こどものころの、言葉のなかったあの感じ。ずっときらきら光る川面を眺めたり、もくもくした雲を見つめたり、風に目を細めたり。
あのときのことを少し思い出しました、と最後に伝えると、彼女は「よかった」と静かに言って笑った。

2019/09/04(水)

精神、肉体ともに、限界を迎えたかのような1日。まぶたの痙攣と、手のしびれが治らない。頭痛もして倒れそうだったので、ベッドに倒れこみこんこんと眠る。夢を見た。ものすごく嫌な夢だった。校長先生が3年1組の生徒を金属バッドで殴り殺し、殺せなかった人には催眠術をかけて屋上から飛び降りさせ、あるいはムカデを食べさせて気を狂わせる、という夢を見ている。「この監督はどうしてこんなひどい映画を撮ったのだろう」と思っているところに目が覚め、ああ、この監督はわたしなのだなあと思う。
途中で雷がたくさん落ちた。これは夢じゃない。水族館は停電したらしい。それでしんどかったのだろうか。

2019/09/03(火)

『あかるい部屋』を書くのがこわい。また、呑み込まれていく感じがする。この小説を書き始めたのと、料理ができなくなったこと、生き物をそばに置くことが我慢ならなくなったことは、同じタイミングで、そのことがこわいなと思った。
今日、緊張しながら二話目を書き始めた。ああ、こわいなあと思いながら。やっぱり涙が流れ、鳥肌が立った。それでも、わたしには小説があるんだと、心の奥のほうでほっとしていた。

友達が「命を削らないでね」と言ってくれた。でも、そうしないと書けないような気がする。そしてわたしは、命を削って書くことで、誠実に生きているって感じがするし、ああわたしは何があっても大丈夫だって思える。それって自傷行為なんだろうか? よくわからない。

ただわたしは、この小説がこわい。まだまだ膜をめくっていかなくちゃいけない。そんなふうに奥へと入っていくのがこわい。

2019/09/02(月)

集中力がいちじるしく低下しているので、外に出かけることにした。空を見たらすごくきれいだった。絵みたい、とおもった。モネの、日傘をさした女の人の。

まるで生きた魚のような言葉を、あちら側からこちら側へ、持ってこられたらいいのに。鴨川ではしゃぐ外国のひとたちを見て、そんなことを思う。

まだ、まぶたの痙攣はおさまらない。