文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/06/22(金)

インタビューの翌日は、抜け殻のようになっている。

ゆうべも新幹線のなかでぼんやりしていて切符をなくすし、携帯電話の充電は切らすし、日記の更新もすっかり頭から抜けていた。毎日書くようになって以降、忘れるなんてことは初めてだった(眠たさに負けて書けなかったことはあるけれど)。
「いたこタイプのインタビュアー」と編集者は言うけれど、おそらく取材した青木さんの言葉がわたしの中をダイレクトに通り過ぎたからだろう。言葉が強ければ強いほど、自分に戻るまで少し時間がかかる。

きのう取材した青木さんは素敵な方だった。とてもシンプルで、明快で、美しい人だった。前々から、服のサイズがぴったりな方だと思っていた。服のサイズがぴったりな人は、自分をきちんと知っている。わたしは、自分を知り、自分を丁寧に扱う人を見ると、うれしくなる。もっとも身近な他人「自分」に丁寧に扱われた人は、美しい。

ところで、わたしのインタビューは、おそらくずいぶん不恰好だと思う。気の利いたことが言えないし、頭の回転も早くない。沈黙に対して鷹揚でもいられないし、インタビュイーに対してすごく緊張する。そのわりに、ド直球な質問をしたり。目を見すぎたり。端的に言えば、わたしは取材がうまくないと思う。

だけど、そんなことはどうでもよくて、彼・彼女の言葉をひとつでも多く聞きたい、取り入れたい、その一心でやっていて、それ以外ない。ああ、かっこ悪いことを言ってしまった、呆れられただろうか、嫌われただろうか、と、あとでくよくよ悩むことは毎度のことだけれど、そんなことより得た言葉たちのほうが大事でいとおしい。結論としてはわたしなどどうでもいいなあと思う。それは小説を書いているときも同じ気持ち。わたし自身が認められたいという気持ちは、20代のころに比べるとほとんどない。良いものが書かれ、読まれたらそれでいい。わたしはその通り道でしかない。

そんなだから、取材の次の日は満身創痍なのだろう。
貴重なボールを少しでも多く取るために、がむしゃらに地面に突っ込んでいく万年ベンチくんみたい。終わったときには甘いものが食べたくてしかたなかった。きのうは、一緒にいた柳下さんとだんごさんに、ずいぶん助けられた。柳下さんが「チーム」と言っていて、そうだなと思う。取材は1対1でなく、インタビュイーも含めたチームプレイなのだと思う。チームで、対話を深堀していく行為。バンドのセッションだ。

今朝はふらふらと朝の支度をし、息子たちを送り出し、散らかった部屋に帰ってきたらメッセージが来ていて、「好奇心と受容力と背筋を伸ばした大人感」と、青木さんがわたしのことを書いてくれていた。とてもびっくりすると同時に、とてもうれしかった。泥だらけだけど、背筋は伸ばせていたのだとほっとする。それは相手の方への敬意のしるしだから。

みんな、どんなふうにインタビューをしているのだろう。わたしは人のインタビューをほとんど見たことがないから、一度同行してみたいなと思う。取材しているところを、取材する。それをまとめてみたら、おもしろそうだ。

わたしはきっと、「コミュニケーション」にとても興味があるのだろう。
好きなのではない、とても興味があるのだ。たぶん。