文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

インタビューについて

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「あなたはインタビューをするときに、声の出し方に気をつけているでしょう」

25歳くらいのときに、インタビュイーの方からそう言われたことがある。
彼は詩人で、わたしよりも50ほど年上の方だった。雨の日の夜に訪れたわたしのために、とてもおいしい紅茶を淹れてくれた。

「声の出し方」と言われて、わたしは驚いた。そんなことを言われたのは初めてだったから。
「いつもより少し低くして、話すようにしています」
そう答えると、彼は「やっぱりだ」と言って笑った。
「あなたの声の出し方はとてもいい。これからも続けるといい」

インタビューというのは、緊張するものだ。
緊張すると人は声が高くなり、話し方が速くなる。
その空気は伝染し、インタビュイーのからだも緊張させる。
そうすると出るものも出なくなる、と何度となくインタビューをするなかで学んでいった。
「低くゆっくりとした声で、場をあたためていく感じでやるといいかもしれないな」
考えてやっていたことではなく、身体的にいつの間にか身についていたことだった。

詩人の彼はすぐにそれを見抜いた。
見抜かれて、わたしはきっと赤面していたと思う。だけど、「続けるといい」と言われて、嬉しかった。わたしは「そうします」と答えた。


インタビューを初めてしたのは18のころだ。
大学生のときにフリーペーパーの編集部で文章を書き始めた。そこで初めてインタビューというものをし、自分の文字が活字になることを経験した。

それからもう15年くらい経つ。
一体何人くらいにインタビューをしたのだろう。ちょっとわからないし、わざわざ数えるのもちょっと気が進まない。数えるのは、これまでインタビューさせてもらった方々に失礼な気がしてしまう。なんとなく。


わたしはインタビューが得意だとは、一度も思ったことがない。
「好き」とか「楽しい」とかいう感覚もあまりない。
どちらかというと、「こわい」というほうが近い。
わたしは、インタビューがとてもこわい。

いつまでたっても、初めてのときと同じ気持ちだ。
毎回インタビューの前には緊張してよく眠れなくなるし、当日はお腹が痛くなる。インタビュイーの前に立つと「ああ、始まった」と思う。そこからは本当に、文字通り無我夢中で、終わると腑抜けみたいになっている。
翌日いっぱいはたいてい使い物にならない。ぼうっとして切符をなくしたり、コーヒーを淹れすぎたり、冷蔵庫を開けたまま、晩ご飯になにを作ったらいいのかわからず途方に暮れたりする。
翌々日になると、ようやく自分が戻ってくる。そして、「ああ、あのインタビューができて本当によかったな」と思い返したりするのだ。「あんなことを話していた」「こんなふうな顔をしていた」
そして「早く、できあがった記事が読みたいな」と思う。
そのためには書かないといけないので、キーボードに向かう。


「土門さんにとってのインタビューって何ですか?」
と、以前お酒を飲んでいる席で、ライターの女性に聞かれたことがある。
わたしはそのとき少し考えて、「一緒に言葉を探し出す行為でしょうか」と答えた。

インタビューをやっているうちに、わかったことがある。
わたしにとってインタビューは、インタビュイーから言葉をもらう行為ではない。もちろんそれも含まれるが、それがすべてではない。
ここで言う「言葉」は、「答え」とも言い換えられる。自分が問いを発し、相手が答えをくれる。その繰り返しだけが、インタビューではないのだと思う。インタビューはもっと大きなものだ。

インタビューの本質は、対話だと思う。会話ではなく、対話。
そしてそれはおそらく「キャッチボール的」ではなく、「セッション的」であるべきなのだろうと思う。
相手の様子を見ながら投げるのではなくて、同じ方向を見ながら模索する感じ。
お互いに音を出し合って、これだという、まだ見ぬフレーズ、つまり「言葉」あるいは「答え」を探し出す感じに近い。


だからわたしは非常に緊張するのだろう。
限られた時間でそれをやらねばならないから。
そして、相手についていける自分であらねばと思うから。

だからわたしは声を低くするのだろう。
自分ではなく、相手に主旋律を歌ってもらうために。
のびのびと、リラックスして、声を出してもらうために。

とはいえ残念なことに、わたしは頭の回転も遅いし、気の利く言葉も持ち合わせていない。俯瞰ができるタイプでもないし、専門的な知識も少ない。
じゃあ何があるのかと言えば、とにかく「あなたの言葉を聞きたい」という気持ちだけだと思う。
もう、それだけでやっている。精神論みたいだけど(というか精神論だけど)、持っているものがそれしかない。だからすごく不恰好なインタビューだと思う。ばかみたいだな、と思いながらばかみたいな(でもとても大切だと思う)質問もするし、わかったふりをしたいのをぐっとこらえて「すみません、ちょっとわからないです」と言うようにしている(それでもあとから「ああ、賢い人ぶってしまった」と思うときはもちろんある。そうするとちゃんと書けないのでよくない)。
だけど結局は、自分がどれだけ不恰好であろうがそんなことはどうでもいいのだ。わたしが望んでいるのは、彼・彼女の言葉をひとつでも多く聞くことであり、わたしがスマートでいられるかどうかではない。

「あなたの言葉を聞きたい」
その気持ちがなくなったときが、自分がインタビューを辞めるときだと思う。

良いインタビューってなんだろう、とよく考えるのだけど、それはまだよくわからない。
だけどインタビューをやっていて一番嬉しい瞬間は、
「その人が発したことのない言葉を聞けたとき」
だと思っている。言った瞬間にその人自身も驚いているような。

わたしはその瞬間に立ち会えたときが本当に嬉しい。
その瞬間にわたしは「ああ、インタビューをしてきてよかった」と心の底から思う。汗まみれの顔で笑いながら。