文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/09/02(日)

梨木香歩の小説に、女の子が人形を持つことの効用が書かれていたのを覚えている。幼い女の子はお人形遊びをすることで、確か、魂を移し入れるとか心を預けるとか、そういうことが書かれていたように思う。だからお人形遊びを充分にしてこなかった女の子は、癇の強い子になることが多いのだと。
わたし自身はぬいぐるみも人形もたくさん買い与えられた子供だった。一人っ子で鍵っ子、夜9時ごろまでひとりで留守番していたので、そういったものがどうしても必要だった。
物言わぬ、表情も変えぬ彼らを横たえ、上からタオルをかけて自分もその隣に横たわった。そして彼らのお腹や胸などを優しく叩き、目をつむる。まるで自分が母親か何かであるように。そのようにして、わたしはたくさんの時間を過ごしていた。あのときは今よりもずっと独りであったように思う。

十代も半ばを過ぎると、ぬいぐみや人形は持たなくなった。そのかわりに彼らに求めていたものを、人に求め始めた。だけど人は物を言うし表情も変える。魂を移し入れたり心を預けたりすると、人のなかにそもそもある魂や心とぶつかってしまう。わたしは自分の魂や心を自分のなかに留め、溢れ出てくるものは文章として書き、やってきたように思う。

最近になり、再びぬいぐるみに惹かれるようになった。
人形ではないらしい。人形は人の形であるからかもしれない。獣の姿形をしていてほしいと願う。
わたしは可愛さや癒しなどを求めているのではなく、魂を移し入れたり心を預けたりする場所を、ふたたび求め始めているのかもしれない。感情の起伏が激しく癇が強くなっている。

「この子は自分のために存在している」と思えるものを持ちたいのだと思う。自らの脳内で生み出す絶対的な安心感。男にも、子供にも、親にも持てなかったもの。

傲慢だろうか。逃避だろうか。ばかげた行為だろうか。
だけど、その傲慢さ、弱さ、愚かさをも受け入れてくれる存在が欲しい。たとえそれが人間でなくても。自分の思い込みであっても。