文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/11/05(月)

大学や短大の取材をすることがちょこちょこある。教育について話を聞くのはおもしろい。このあいだ編集者が「僕が推測する土門さんの興味がある職業トップファイブ」と言って「経営者・編集者・料理人・教師・カメラマン」を挙げていたのだけど、本当に合っていると思う。それぞれに共通するのは何かなと思ったら、それは視点のあり方がわたしと違う、ということなのだった。
わたしは視野がとても狭く、近眼的だ。ひとつのものをクローズアップして見る癖がある。だから断片的だし印象的だし、目の前のものでいっぱいいっぱいになるため、いつも不安定なのだ。その目の前にあるものに翻弄されないようになんとか書き続けることで、その文章の断片たちを貫く何かを探しているような気もする。
だけど、さきほど挙げられた職業のひとたちは、より俯瞰していたり、見方が多面的だったりする。自分のつくりたいもののイメージがあって、実際にそれをこの世に生み出そうとすることをおそれない。世界に対して心を開き、ひるむことなく手を伸ばし、世界と濃密なコミュニケーションをとっている。中でもいちばん物書きと近しいと思われるカメラマンだって、シャッターを切る瞬間は被写体の領域にかなり踏み込み気配に触れている。だけど書くことは違う。「触れる」というよりは、「見る」に近い。だけどわたしは、「触れる」に近い「書く」をしたいと思う。だから憧れているのかもしれない。

今日話を聞いた学長は、「平和」についての学問が専門なのだと言っていた。

「平和っていうと、穏やかでほのぼのとしたイメージがありますよね。だけど、他国の多くでは、『平和』というのはもっと緊張感のあるものなんです。手を繋いでにこにこと仲良しの関係を結ぶことが『平和』なのではなく、お互いに向き合い、違いをしっかりと認識し合い、緊張感をもって対話し、受け入れられるところから受け入れていく。そうすることによって『平和』をつくる、というのが多くの国での認識なんです」

そして彼は、自分自身ともそういう関係をつくってほしいと言った。
「自分と緊張感をもって対話する」
わたしが繰り返すと、彼は「そうです」と言った。
「それは、敬意とも言い換えられますか」
すると彼はもう一度うなずき、「そうです」と言った。

わたしの思う「世界との濃密なコミュニケーション」とは、もしかしたらこれなのかもしれないと思う。ただほのぼのと穏やかでのんきなものではなく、もっと緊張感のある敬意によって構成されているのかもしれない。

緊張感のある敬意をもっているから、世界に対して手を伸ばせるのかもしれない。