文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/06/30(土)

朝から1日ひとりで子守の日。
長男と次男を、長男のサッカー教室へ連れていく。自転車で鴨川を北上する。30分ほどかかって、着いたときには汗だくだった。
「お久しぶりです」
とコーチに言われる。前にここに来たのはいつだったろう。いつも夫が連れていくのだ。久しぶりに見た長男のサッカー姿は、ずいぶん上手になっていた。もう少しでゴールに入りそうだったのに入らなくて、「ママにゴールをみせてあげる」と意気込んでいた長男は少し残念そうだった。
次男は道路を走る車をじっと見ていた。「おとなしいんですね」と、他のお母さんに言われた。

ショッピングモールでふたりの靴を買い、長男が本を買いたいと言うので書店に行く。欲しい本が四冊あったのだが、そのうち一冊しか見つけられなかった。次男が眠たくなったらしく、床にへばりついて泣く。長男は「てれびくん」を持ってきた。ベイブレードというアニメの付録がついていて、「げきれあ」だという。

夜は子供をつれて、保育園が同じ人たちとの飲み会だった。
編集者の女性は、ルーツが台湾にあり、次々と台湾料理を作っては出してくれる。どれもとてもおいしかった。
放射線科医だという、3人の男の子の父親である男性は、シェイカーを使って様々なカクテルと作ってくれた。奥さんは乳腺外科医で、授乳後に乳房が小さくなるのは避けられないですよ、と言った。


2018/06/29(金)

この二日間ずっと頭が痛かったのだけど、今日朝から大雨が降り、雨が流れるとともに頭痛も治っていった。気圧の低下によるものだったのだと思う。年々、気圧の影響がひどくなっていっている。

スリランカと韓国というテーマで短編小説を頼まれていたのを書き上げた。編集者に「君の大学時代の恋愛の話はおもしろいよね。ああいうのが読みたいな」と言われたので、留学生の話を書いた。
読んだ人の身体性に影響するような小説を書けたらいいなと思う。目と頭だけではなく、喉とか、お腹とか、筋肉とか。そういうところに、何かが染み入るような、そんな心持ちのする小説を書きたい。できあがったものは、自分を励ますものになった。短編小説を書くと、一つ自分の作品が増えて、嬉しい。その作品が好きになれたなら、なおさら。編集者はどういうかな、と思いながら送る。

腰と背中が痛く、普通に歩けない。このまま放っておいたら大変なことになりそうだ。慢性的な運動不足のような気がする。ストレッチをして寝る。
内へと向かいすぎると、濃く煮詰まってくる。ドロドロになると、笑わなくなるので、ちょっと外へ出たい。
「バランス」という言葉があまり好きではなかった。なんだか寂しい気がするからだった。でもいまは、その大切さがわかる。「バランス」は手段だ。だから寂しいのだけど。


あと一本インタビュー原稿を仕上げて、長編の小説に帰ろう。

2018/06/28(木)

頭痛がひどい。
肩こりと腰痛もずっとあるので、昔よく行っていた接骨院に行ってきた。とても上手だった先生はいなくなっていて、違う男性が施術をしてくれた。大きな手だなと背中で感じながら、少しうつらうつらした。彼はわたしの体が、波状に歪んでいると言う。そう言われても、どうしたらいいのかわからない。波状のまま、ぼんやりする。
待合室で、堂本剛の本を手にとる。19歳のときの堂本剛が書いているエッセイだ。懐かしいな、と思いながら読んだ。明星で連載していたものだ。今思えばわたしは彼のファンだったのだと思う。なんだかいつも居心地悪そうな、しらけているような、そんな自分を恥じているような、そんな顔でテレビに映る彼がどうしても気になっていた。テレビに映るとその顔を見るために必ず観た。ハラハラしながら、それでいて、そんな顔で映る芸能人がいることを嬉しく思いながら。

3つ分のエッセイを読んで、涙が出た。
堂本剛は、「強くならなくていい、強くなるとわからなくなることがあるから、そんなだったら弱いままでいい」といつも言い聞かせていると書いていた。
ファミレスで平手打ちされる小さな男の子を見てごはんが喉につかえる、疲れたお母さんに「青い空だよ」と必死に教えてあげる子供に涙が出そうになる。
大変だったろうな、と思う。
そのとき、結婚したあとの苗字でわたしが呼ばれた。再診なので1000円といくらだと、お姉さんが言った。

お昼にムジャラというカレー屋さんに行く。スリランカと韓国についての小説を書くことになり、スリランカカレーを食べてみようと思ったのだ。
いつもお昼は家で簡単にすませているので、外食は久しぶりだった。ひとりで店に入るのは、とても緊張した。
「あ、少なめでお願いします」と、あとからきた若い女の子が言ったのだけど、店主はすでにお皿に盛り付けを終えており、それを見てわたしはどきどきした。
「残してもいいっすよ」
と、店主はやさしく言った。
よかった、と思いながら、わたしも少し残した。おなかが苦しかった。

帰ってもまだ頭が痛い。ソファに横になりうなっていたら、大学時代の友達からメッセージが突然きた。思いもよらなかった。彼女はわたしの文章をずっと読んでいる、と言った。

「何かを生みだすのって、苦しくてとてもパワーの要ることだと思うし、その苦しみは私の想像を絶するものだと思うけど、身体に気をつけて頑張ってね。これからも陰ながら応援させてね」

ああ、もうだめなのかな、と思うときがよくある。手が動かなくて、書けない。あるいは書いても書いても、書けている実感がない。そういうときはとても怖い。頭が痛い、というのは言い訳にできるからまだよくて、頭が痛くなくなったときこそ怖い。
だけどへこたれそうになったときにこういうメールが届く。まるで神様のはからいみたいに。わたしは彼女に、神様に、感謝する。応援してくれて、本当にありがとう。読んでくれて、本当にありがとう。明日もまた、書いていこう。

編集者と電話で話したら、少しましになった。笑ったからかもしれない。
明日は、スリランカと韓国の小説を書く。

2018/06/27(水)

だめな日だった。一日中家にいて書いていたけれど、なかなか言葉が出てこない。ガソリンが足りていないというよりも、エンジンがまわらない感じだった。

昼、食パンにきゅうりを挟んで食べようとしたら、両方とも傷んでいたので捨てる。ふと見ると、かぼちゃも、納豆も、メロンも傷んでいたので、「ごめんなさい」と言いながらゴミ箱に捨てた。
最近冷蔵庫の中身をきちんと使い切るということができない。食欲があまりないので作るのも気が進まない。それでもなんとかごはんを作っている。自分のごはんがおいしいと、最近まったく思わない。これがほかの領域にも進むと、まずいなと思う。

眠ったら、明日は元気になっているかな。

2018/06/26(火)

長男がもらってきたかぶとむしの幼虫が、きのう一匹、そして今日また一匹、成虫になった。わたしは虫を育てたことがないので、幼虫は多分成虫にならないまま死ぬのだろうと思っていた。なんとなく。だから、成虫になったときには、思いがけず嬉しかった。

長く生きて3か月だと言う。3か月しか生きられないなら、こんな箱に入れないで、どこか森のなかに放したいと思う。そう言うと、長男は賛成した。ただ、森がどこにあるのかわからない。どんなところがかぶとむしに適しているのかもわからない。わたしはわからないことだらけだ。今度、このかぶとむしをくれた子に聞いてみよう。

今日はひとつの原稿に思いがけず時間がかかった。
なぜだろうと考えて、いまだ言語化できていない部分を書いているからだとわかった。「孤独」というテーマのその連載は、今後ものすごくパワーを使うことになるだろう。
自分に向き合わないと、書けない。

でも文章とは、本来そういうものなのだから。


かぶとむしが裏側になって、脚をばたばたさせていた。
触れないので困っていたら、まわりのかぶとむしが手助けをして起こしてあげていた。
ああ、よかった、と思う。
そして、わたしも同じようなものなのだと思う。

ひとりで書いているけれど、読んでくれるひとがいる限り、きっとその文章は書ける。

カフカだったろうか。
「書いている限り人は完全には孤独でない」というようなことを言っていたのは。

2018/06/25(月)

先日、東京に行ったとき、中央線の電車に乗った。

電車のなかで編集者に「嫌いなものってある?」と聞いたら、彼は「あるよ」と言った。
「なに?」
「美意識のないもの」

確か以前、彼に同じ質問をしたときには、彼は「嫌いなものはない」と答えたのだ。
嫌いなものができたのか、それとも嫌いだと思っていなかったものが実は嫌いだと自覚したのか、それともわたしにまたひとつ心のドアを開いたのか。
編集者は穏やかな顔で、
「そういうものは、僕が殺してあげたくなる」
と言った。

センスが「良い」「悪い」という言い方はありえない、と江國香織さんが何かに書いていた。センスは「ある」か「ない」か、そのどちらかである、と。

きっとそれを失ったら、わたしたちは人間じゃなくなるんだろう。
だから殺されてしまう。たとえば、隣に座っている編集者に。まるで虫のように。


朝から小説を書き、短歌を詠む。

焦らずに、愚直に手を動かそう。
燃やす命が、どうか美しくありますよう。

2018/06/24(日)

文章には書くひとの内面が滲み出る。
それはにおいのようなもので、読んでいるとふわっと文字から漂う。
そのにおいで、わたしはその文章を好きか嫌いか、読むべきか読まざるべきか、直感的に判断しているところがある。

自分の文章についてもそうで、書いたそばからにおってくる。
今日はにおいがなかなかとれなくて参った。なぜかというと、家庭内でちょっとごたごたしていたからだ。わたしは今日何度も、自分のことが嫌いだな、と思った。

そういう日は家事をする。
ふとんのシーツを洗い、子供の午睡用のふとんを干す。
玄関を履き、寝室に掃除機をかけ、トイレを拭き、自転車に乗ってクリーニングへ行き服をひきあげ、ビニルから取り出し冬服用のケースに入れる。

そうしているうちに、自分からにおいがとれていく気がする。
「労働は沈黙だ」と言ったひとがいた。わたしは黙って、労働する。

それからまた、文章を書く。そうすると、においがいくぶん薄らいでいる。


長男がもらってきたかぶとむしの幼虫が、どうやら成虫になったようだ。
つのが土の中から出てきている。つのだけ出し、かぶとむしは沈黙している。
「生きてるの?」
と聞いたら長男が「生きてる」と言った。長男がケースを叩くと、ぴくりと動いた。