文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/01/07(月)

今年は早起きを習慣づけてみようと思い、普段7時に起きるところを6時に起きてみた。寒かったけれど歯を食いしばって起きた。音楽を聴きながらまずはストーブの前であたたかな服に着替え、それから顔を洗ったり、洗濯をしたり、お弁当や朝食をつくったり、つまりいつもの作業を1時間前倒しでやった。これがとてもよかった。ずっと時間ができたらやろうと思っていた洗濯槽の掃除や、ペディキュア落としなんかもできた。星野源の新しいアルバムを聴き「めっちゃいい曲やな」とつぶやきながら、二階で寝ている家族を起こした。家族が出かけたあと窓を全開にし、空気を入れ替えた。すごく気持ちが良かった。

午前は小説を書き、昼間に30分ほどプールへ行って泳いだ。そしてまた帰ってきて小説を書き、今度インタビューをする方のこれまでの取材記事を浴びるほど読んだ。

今週はこれから出ずっぱりになる。明日は打ち合わせ、明後日も打ち合わせ、そのあとは取材で、金土は東京。今月は忙しいし、多分来月も忙しい。かぜなどひかぬよう、精神が不安定になって泣いたりせぬよう、なるべくあたたかく、なるべくゆるく、やっていきたい。

ユニクロのふわふわのフリースがすごくいい。色を黒じゃなく、明るいベージュにしてよかった。ブルーライトカットのためにサングラスみたいなめがねをかけて、ふわふわのベージュのフリースを着て、なんだか妙ちきりんな格好だけど、寒さから、ブルーライトカットから、自分を守る具体的でやさしい格好だと思う。

2019/01/06(日)

大学時代の友人の奥さんが亡くなったらしい。重度の鬱を患っており、自ら命を絶ってしまったという。彼のFacebookの投稿を読み、本当に驚いた。何度もその記事を読んだが、読み返すだけで何もリアクションできず、親指マークも泣き顔マークもクリックできないままにスクロールし、そのまま日が経った。四十九日が来たという。
そしてここにも何も書けない。わたしは会ったこともない、話したこともない彼女について何も書くべき言葉を持っていない。友人の心が、少しでも癒されたらいいなと思う。親指マークや泣き顔マークをクリックすることは、ものすごくわずかではあっても、もしかしたらその癒しのひとつになるのかもしれない。それでも、わたしにはそれができない。

2019/01/05(土)

いつもはインタビューをする側だけれど、今日はインタビューを受けた。インタビューに答えるって、全然違う筋肉を使う感じだ。普段はベースを弾いているのに、突然ギターを弾くような。だから、うまく話せなくて当然だったのかもしれない。そしてそれはそれでよかったのかもしれない。インタビューはその場限りのセッションみたいなものだから。だけど文字になるのがこわいな。ああ、あの質問にはこのように答えたほうが正確だったな。いらんことを言ったかもな。だけどいろいろな質問をしてもらって、自分のことをまた知ることができた。自分はこんな音を出すんだなあとか。こんなフレーズ弾くんだなとか。それが読者の方の役に立つかどうかはわからないけれど、自分にとってはよかった。

インタビュイーはこんな気持ちなのか。本当に、勉強になった。

2019/01/04(金)

仕事始め。息子たちをそれぞれ送り出し、久しぶりにひとりきりで家で書く。落ち着く。早く平日に戻ってほしい気持ちも込めて、お正月飾りもとった。ドアにテープのあとがつくかなと思ったが、きれいにはがせて満足した。

昼過ぎ、小説を書いていたら無性に映画が観たくなった。それも邦画が観たい。それもアウトローが出てくるやつ。まてよ、物語の主人公になる人間はだいたいアウトローだと言えるのではないかとしばし考えたが、その答えが出る前に夕方が来たので、息子を迎えに行く前にTSUTAYAに寄る。『孤狼の血』という、故郷の呉市が舞台であるヤクザ映画を借り、あともう一本何か観たくなり、山田洋次監督の『学校』を借りた。これは定時制中学を舞台にした話で、自分が小学生の頃に金曜ロードショーを観て、えらく泣いた覚えのある映画である。『学校2』だったかもしれない。どちらでもいいか、と思い、それを借りる。

わたしの通っていた高校にも、定時制のクラスがあった。両親が家を出ていってしまい、働かざるをえなくなった幼馴染は、そこに通っていた。よっちゃんというその男の子は、わたしのもっとも古い友人で、ちょっといじめられっこで、中学までは「土門さん」と呼んでいたのに、定時制高校に通うようになると髪を染めたりするようになって、昔のようにまた「蘭ちゃん」と呼び始めた。それがなんだか、嬉しかった。

「おお」「おーす」と言いながら、タッチ交代するかのように入れ替わる。

受験生のとき、よく空いている教室で夜の9時前まで勉強していた。家に帰っても誰もいないから。定時制クラスから先生の声が聴こえる。それを聴きながらひとりで勉強するのが好きだった。なんだかほっとした。

TSUTAYAでそれを借りながら、ふとそのときのことを思い出した。前にいるおじさんがしょうもないことで大きな声で怒っていて、相手をしていた若い女性のスタッフが淡々と対応していた。えらいもんだな、わたしだったらおたおたしそうだな、と思う。
わたしとおじさんがいなくなったら、スタッフさん同士で「なにあのおじさん」って言うのだろうか。言ってほしいな。むしろわたしが「なんですかね、あのおじさん」と言いたい、と思いながら、店を出て長男を迎えに行った。

2018/01/03(木)

復活した。

いろいろあり、きのうは1日泣いていたのだけど、あんなに泣いたのは久しぶりだなと思う。それで思ったのだけど、怒りや悲しみなどの感情が沸き起こって溢れ出たとき、やっぱり思い切り泣いて怒ることが一番だなと思った。思い切り泣いて怒って、それから寝る。起きたときにまだ残っていたら、我慢しないでまた泣いたり怒ったりするのがいい。思い出し怒り、思い出し悲しみもどんどんしたらいい。そうしているうちに、気が済んでくる。くすぶっている感情の燃殻に、ガソリンをぶっかけて火をつける感じ。燃え尽きるまで燃やしたら、その感情はおさまる。

わたしは今回「ひどい」という言葉を何度も言った。それから「なんでわたしだけ」「こんなにがんばってるのに」普段、言わないようにしている言葉だ。「わたしだけ」でもないし「こんなに」でもないことは自分がいちばんわかっている。だけど、言いたくてたまらなかったので、言った。相当みっともなかったと思う。言いながら、普段自分の口から出ることを許していない言葉だと思った。だけど思う存分言ったら、気がすんだ。

今年の抱負は「寛容とユーモア」。自分を許して、甘やかす。それでまた立ち上がる。歩いたさきでいつか、みっともなかった自分を笑えたらいい。

怒りや悲しみを燃やしたらなんだかお腹が空いたので、ごはんを食べた。そうしたらかわいいものやきれいなものが見たくなったので、ひとりでデパートに行って思い切り買物をした。

帰ってからレモンパイを食べ、そうしたらまたふつふつと怒りが湧いたので、思い切り怒った。怒りながら、少しずつ怒りが小さくなっているなと思った。

よかった、これで自分をかわいそうがることなく、明日からまた生きていける。


2019/01/01(火)

お正月になると、今年の抱負について考える。2018年は「無理しない」で、2017年は「愛する」だったということは覚えている。2017年は愛することを習得できなかったし、2018年はやっぱり無理した。ことごとく破れているわけだが、抱負を掲げることは悪いことではないと思うので、毎年懲りずに掲げている。

それで今年は何だろうと考えていたのだが、ちょっと言葉が出てこなかった。「力を抜く」のような「楽しむ」のような「手放す」のような「息を吐く」のような「カジュアル」のような。でもどれも少しずれていて、ぴったりという感じがしなかった。つまりいまのわたしはがっちがちに力が入ってしまっていて、それが心配なのだった。

力が入っていると、なかなか文章が書けない。「いいものを書こう」と思うと書けないけれど、力を抜いて「なんでも書いていいんだな」と、諦めるような、手放すような気持ちになると、なぜだかわくわくしてきて、書ける。そういう感じって何だろうと思って、ずっと考えていた。

それで本を読んでいたら
「寛容とユーモア」
という言葉が目に入ってきた。
ああ、これいいな、と思って、わたしの今年の抱負にすることにした。

「寛容とユーモア」。
それって「許す」に近いかもしれないなと唐突に思って、そうか、わたしは許したかったのか、と気づいた。多分、わたしはわたしを許したかったのだ。


「なにせうぞくすんで一期は夢よただ狂へ」

「遊びをせむとや生まれけむ戯れせむとや生まれけむ遊ぶ子供の声聞けば我が身さへこそゆるがるれ」