文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/02/26(火)

『経営者の孤独』の第8回目が公開された。今回は株式会社ウツワのハヤカワ五味さん。わたしよりも10歳年下の彼女は、非常にエネルギッシュで発信を臆さない。何度も読み返したが、今日もまた読み返してみて、きっと誰かの心を支えたり方向性を変えたりする言葉だろうなと思った。そういう言葉を記事にできるのは光栄だと思う。

母から連絡があり、「自衛隊のお客さんが、あんたの小説を読んだらしい」と言っていた。母がやっているスナックによく来るお客さんだ。多分、呉の街を舞台にした、SUUMOタウンの小説だと思う。
母は韓国人で、もう日本に来て38年経つが、日本語の読み書きは十分にはできない。多分身につける気も、暇もないのだと思う。だから彼女はそれを読まないし、今後書かれるであろうわたしの作品を読むこともないと思う。
「あんたわたしのこと書くのやめんさい、はずかしいけえ」と母は言っていた。「うん、もう書かんよ」と答えたけれど、次に書いている長編だって母のことだ。読んでほしいのかというと読んでほしくない。人のことを書く、というのは難しいことだ。モデルがはっきりしている場合にはなおさら。母にはもしかしたら、残酷なことをしているのかもしれない。だけどそうすることで、わたしと母の関係は正常なものとして成立する。わたしのなかで。

今日は授業参観があり、そのあとは廉太郎のプールの付き添いがあった。仕事もあるしサボろうかと思ったが、考え直してどちらも出席した。今、プールの待合室でこれを書いている。
母としてできるだけ機能したいと思う。書くということは、その上に成り立っている気がする。だって、母としてのことをサボっていたら、わたしはもう子供のことを書けない。子育てもしていないのに子育てのことを書いたとしたならそれは嘘になる。だからできるだけ、母としてできることをしていたい。それもまた、残酷なことなんだろうか。だけどやっぱりそうすることで、わたしと子供の関係も正常なものとして成立するのだ、わたしのなかで。

子育てについての文章を子供が読むようになったら、どうなるだろう。もう書かなくなるのかな? それとも書かせてくれるだろうか。
もし許されるなら、ずっと書いていたい。わたしにとっては、書くことは相手を大事にすることなのだ。絵を描くように、写真を撮るように。それが望まれない場合もある、ということはわかっている。

2019/02/25(月)

次男が通っている保育園のクラスにて、ある男の子が退園するらしい。餞別にメッセージカードブックを作ろうという話になり、文化委員であるわたしがそのディレクション係に任命された。クラスにはメーリングリストがあるのだが、そこには退園する男の子のお母さんのメールアドレスも登録されているため、メッセージカード執筆の依頼を個別で送らねばならない。ミスらないようにミスらないように、と思っていたら、案の定送るべきアドレスをミスってメーリングリストで送ってしまった。ああわたしってばかだなあ、と思う。退園する予定のお母さんから、「お気遣い誠にありがとうございます」と返信が来た。

今日はなんだかぼんやりしていて、どうもいけなかった。この週末で『100年後あなたもわたしもいない日に』の注文がたくさん来ていたので、まずはそれをすべて発送する。その後どうしても書けなかったので、かわりに今後やらねばならなくなるテープ起こしをした。
それから、VOUへ行った。VOUの宇田さんは最近よく話しかけてくれるので嬉しい。

ああ。どうも眠たい。もうすぐ2月が終わる。そして3月が来る。当たり前の話だけど、なんだかびっくりしてしまう。もう春なのだ。

2019/02/24(日)

長男のプールの付き添いに若林恵『さよなら未来』を持って行き、待合室で読む。読んでいると落ち着く本というのがあるが、この本もそのうちのひとつ。取材後のざわざわとした頭のなかをクールダウンさせてくれるような。あれを読み終わるまでは大丈夫だとおもわせてくれるような。

分厚い本を読んでると頭良さそうに見えるかなと、頭良くなさそうなことを考えた。本を読む女はみんな美しく見えると書いた人は誰だっけ。

2019/02/23(土)

自分の中の論理は世の中にとっては非論理的である可能性がある、ということがわかった二日間だった。別に自分の論理を世の中に合わせる必要はないけれど、非論理的であるかもしれないということはわかっていないといけないんだなと思った。共感はともかく理解ができない、というのは、断絶だからもったいない。サイコパスは自分のことをサイコパスと言わないし、狂人は自分のことを狂人と言わない。

唐津から京都に戻ってきた。疲れたのか頭がくらくらする。今お風呂にお湯を張っている。お風呂で本を読んで、眠ろうと思う。

2019/02/22(金)

唐津へ来た。取材の前乗り。佐賀には初めて訪れる。編集者と長い時間話す。これまでいろいろ溜まっていたのかな。本当にいろんなことを話した。お刺身がおいしかった。惨めな思いをすると、その傷を修復するために倍の労力がいるね、という話をする。

旅慣れていないので、いらないものを持ってきて、いるものを持ってきていないことがままある。今回もそう。今回は日焼け止めを忘れた。まわりにはコンビニエンスストアもドラッグストアもない。海が近い。

2019/02/21(木)

昼にプールに行ってきた。先週は一度も行けなかったので、今週は二度。また来週から週に一度のペースに戻すと思う。リズムを崩しながらもその都度直しながら、なんとか続けている。

今日は人が多かった。人が多いと、ざわざわしている。地上も、水中も。水がゆらゆらして、からだが思うように前に進まない。クロールをしながら、自分のからだが硬くなっていることに気づく。まわりに誰かいるんじゃないか、そう思うと、つい縮こまって泳いでしまうのだった。

ふと、首がまわることに気がついた。わたしは前と左右を見ることができる。まわりには誰もいない。それを確認すると、わたしは急にリラックスして、からだをのびのびと伸ばすことができた。

まわりをよく見ること。バスケット部に所属していたとき、いつも言われていた。わたしは見えもしない、見てもいないものにいつもなんだか怯えている。どんなに狭くても、首は動く。まわりを見ることはできる。

まわりをよく見ること。すごく大事なこと。久々に思いだした。

2019/02/20(水)

普段ひとりで仕事をしていると、ほとんど人と話さないので、褒められることも叱られることもずいぶん減ったのだが、今日は非常に褒められた。早朝に書き上げた原稿がとてもよかったと、連絡があったのだ。彼は「本当に素晴らしい」と様々な賛美を送ってくれて、
「あと5時間くらい君を褒め続けることができる」
と言ったので笑ってしまった。iPhoneを耳にあてながら鏡を見ると顔が赤くなっていた。

書けないときには事務仕事や家事をしている。あるいはもういっそ泳ぎに行ったり映画を観たりする。この時間が、いつか書けるようになった自分を支えてくれると知っているから。だから粛々と手を動かし、目の前のいろいろな仕事を片付ける。大丈夫、動いてさえいれば、書けない時間も書く時間になる。そう言い聞かせながら。

そういう自分すらも、褒めてもらえたような気がした。
書けなかったときのわたし、ありがとう。よかったね。おつかれさま。