文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/03/05(火)

大好きな日記ブログ『肉屋と重力』が見られなくなっている。「ページが見つかりません」と出るのだ。なぜだろう。そのことに気づいて以来、2,3日に一度見に行っては肩を落としている。なぜ見られなくなったんだろう。好きだったのに。

この日記も、読んでくれている人がいるらしい。ときどき、「今月のPVがいくつ突破しました」というようなコメントが右上に出る。そのたび、こんなに読んでくれている人がいるのかとびっくりする。おもしろいのかどうかわからないけれど、読んでもらえているのはなんとなくいいことのような気がする。

わたしも日記が読みたい。教訓も学びも驚きもない、ただの日記が読みたい。わたしの日記も、そういうものであったらいい。

2019/03/04(月)

今日は柳下さんの誕生日だ。今回の『柳下さん死なないで』には小倉ヒラクさんが寄稿してくれた。とてもおもしろい小説だ。読みながら興奮してしまった。

柳下さんが「正気はひとつしかないけど、狂気はいろんな形がある」と言った。

本当にその通りだと思う。
そして、狂うのにも体力がいる、と思ったけれど、もっと正しく言えば、狂うのには自分のお城がいる、と思った。

最近のわたしのお城は、ちょっとざわざわしている。きれいに掃除ができていない感じ。清潔に、冷たく、したい。

2019/03/03(日)

永遠というものは主観的なものなのかもしれない。いつ死んでしまうかわからないちっぽけな存在が信じる永遠だけが永遠なんじゃないだろうか。

わたしはひとりひとりの人間の主観がひとりひとりの世界をつくるとしかやっぱり思えないのだ。たぶんわたしが、自分の主観しか書けない、とても近眼的な人間だからだと思う。

そういえば学生のころ、母に「もしわたしが死んだら骨は墓に入れず海にまいて」と言ったことがある。母は縁起悪いこと言うなと怒ったし、友人にはそれは法律で禁じられてるよとたしなめられた。わたしは頼む人を間違えたと思った。

だけど、だれに頼めばよかったのだろう?

あのときわたしは「わかった、必ずそうする」と言ってもらえたらそれでよかったのだ。死んだら海にいけるんだと、思えるだけでほんとによかった。それがわたしなりの永遠だったから。

2019/03/01(金)

夜は何度も起きてしまいあまりよく眠れなかった。心が少しざわざわして、足がふわふわしている感じ。身近な人の「死」という、変化が起こったからだと思う。「死」ってなんだろう。頭ではわかっているのに、まだちゃんとわかっていないんだなと思う。

ふと彼が亡くなったことを忘れている瞬間があり、こどもたちとしょうもないことで笑ったりする。

そう言えば夜、長男の通う小学校の先生から電話があった。彼が作品展用の絵画に戦争の絵を描いて、おそろしい絵になってしまったのだという。戦車を描き、ミサイルを描き、赤い雨のようなものを描いたのだと。

「そうですか」
とわたしは答える。「それで……」
「それで、描き直してもらったんです」
と先生は言う。
描き直してできた絵は恐竜だ、と言っていた。戦争はだめで、恐竜はいいらしい。テーマを聞くと「のってみたいないきたいな」だという。

先生は「何かあったのかと心配で」と言って、なんだかわたしまで心配になった。
だけど彼は戦争反対を唱える平和主義者なのだ。わたしよりよっぽど和を尊ぶ。

長男は、恥ずかしそうな顔をしていた。
戦車はかっこいい、ミサイルもかっこいい、だけど、人を傷つけてはいけないと、彼はちゃんとわかっている。

それでいいと思うのだけど。

2019/02/28(木)

2月最後の日に義父が亡くなってしまった。
おおらかな人だった。子供たちのことをとても可愛がってくれていて、遊びに行くといつもぞんぶんに遊んでくれていた。本が好きで、よく長男を図書館に連れていってくれて。次男にも車の本を借りてきてくれていた。映画も好きで、テニスも好きで。たばこも吸わないしお酒もほとんど飲まなかったのに。

しらせを受けてからは留守を預かっていただけなのに、夜になると急に疲労感が出た。いつも通り洗濯物を取り込み、お風呂を洗い、夕飯を作った。子供たちは豚丼にするとよく食べる。「おいしいね」と言うとふたりともうんうんと言った。わたしたちは生きているね。

祖父の死を説明しても、子供たちはまだよくわからない顔をしている。
わたしも突然空いてしまった穴に、まだ全然馴染めない。
こんなに早くだなんて、思ってもみなかった。

2019/02/27(水)

週末に佐賀に出張に行って以来、どうも何か、おかしい。今日はお昼にプールに行ってきたが、いつもよりもずっとからだが重たくて、50mを泳ぐのでいっぱいいっぱいだった。エッセイを書いているのだけど、原稿を書き始めても、すぐに手が止まる。書きたいことはなんとなくわかっているのだけど、文章が続かない。こういうときでもできることと言えばテープ起こしだと思い、無心で起こしては書いている。人の言葉をまとめることならできる。エッセイや小説が今は難しいみたい。心がざわざわしているのかもしれない。よくわからないけれど、できることにできることをやろうと思う。

そんなことを思っていたら、テープ起こしをしていた建築学科の学生さんが、こんなことを言っていた。

「もやもやしていても、きれいじゃなくても、スタディ模型や簡単なスケッチをとにかく作るんです。そうしたらそこから始まるから」

本当にそうだよね、と思う。結局、手を動かさないと字は書けない。
この仕事のいいところのひとつは、欲しい言葉を欲しいときにもらえることがある、ということだ。