文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/06/27(木)

クラウドファンディングのお礼状を直筆で書く。A4用紙びっしりと書いたので、途中で間違えないか、行が斜めになったりしないか、ちゃんと紙に収められるか、ハラハラしながら書いた。で、ハラハラしながら書くとあまり良くない文字になる。もともと綺麗な文字は書けないが、気持ちの良くない文字になる。二回目は、間違えても良いから気持ち良くのびのびと書こうとした。そうしたら、わりと見られる文字になった。恐れたりしゃちほこばったりしながら作ったものは、見苦しいのだなと思う。見ていて苦しいということ。

2019/06/26(水)

今日は、父親のことを思い出していた。彼はわたしよりもずっと背が高い。183センチある。人の誕生日を覚えるのが好きで、お祝いするのも好きで、どこかへ行ったらお土産をたくさん買って帰ってくる。人になにかしてやるのが好きなのだ。
父はわたしのことをたいそう可愛がった。「蘭」なんて大げさな名前をつけたのも父だ。そんな名前をつけたら育てるのが難しい子になるよ、と言われたらしいけれど、ずっとその名前をつけるのが夢だったらしい。
父は口下手だったけれど、わたしのことを時々褒めた。よく言われたのは、「声がいい」ということ。
「お前は声がいい。特に、歌声がいい」
よく魚釣りに連れていってくれた。駅のキオスクで漫画とチップスターを買ってもらい、父が釣りをしている間ずっとそれを読んで待っている。帰ったら父はよくそれを唐揚げにして、隣に持ってってこいと、大皿に入れてわたしに持たせた。
手を握ると、恥ずかしがって「やめろ」と言われた。好物のボーロを食べていると「お前は赤ちゃんか」と言われた。自分のことを「蘭ちゃんはね」と話そうとすると、「ばかみたいだからやめろ」と言われた。「髪を切りたい」と言うと、絶対に許してくれなかった。「髪は長い方がええ」と言って。
そういういちいちを、わりとよく覚えているものだなと思う。

2019/06/25(火)

この日記を書くのが次の日の午前中になってしまうのは、いつも夜になると力尽きてしまうからだ。最近、朝目が覚めたとき、少し気分が落ち込んでいる。以前はもっとひどくて、朝起きるたびに死について考えていたけれど、最近少しずつまたそうなってきている。あまり良くない。なんでこうなるのか、理由を考えてみてはいるけれど、やっぱりなぜなのかわからない。イメージの問題なのか。世界にたいして、自分にたいしての。

だけどそんなとき、やっぱり本はいいなと思う。静かで、受け入れられていて、安全だ。そういえば午前中に図書館に行った。この図書館は、建物の中心に螺旋状の階段があって美しい。一番好きな図書館かもしれない。そこで聖書をさがしもとめた。ああ、こんなに読んでない本がたくさんたくさん、おびただしくある、と思うと、鳥肌が立った。深海に沈んでいくような気持ち。ああ、時間が足りない。どれだけ読めるだろう。どれだけその本について語れるだろう。そう思うとき、わたしは死への希求から少し遠のいている。

2019/06/24(月)

昨日の日記の日付けが7月23日になっているというご指摘をいただいたので修正する。もう7月だと思っていた。疲れているのかもしれない。今月は気圧の変化も多かったようだし。

一日家で原稿を書く。ときどき本を読んだ。きのう買った、坂口恭平『cook』、イ・ラン『悲しくてかっこいい人』、雑誌MONKEY「短編小説のつくり方」をぱらぱらめくる。どれもいい本だ。いい文章。いい文章というのはにおいでわかる。そういえば日曜に、ある小説を読んだのだけど、それはあまり好きではなかった。いい文章ではないと思った。でもそれが、どういう基準なのかはちょっとまだわからない。今後考えるべきテーマ。

わたしは文章に関しては本当に好き嫌いが激しい。だからこそ、好きな文章に出会えたときはとてもうれしい。

2019/06/23(日)

久々に休日にひとりで外に出かけた。書店を3軒まわり、本を4冊買った。書店によってまったく本の表情が異なるのは興味深い。風通しの良い書店、にぎやかな書店、厳かな書店。しかし、本を選ぶという行為は割と難しいものなのかもしれない、と思う。「本を読む」の前に「本を選ぶ」という段階があるわけで、こんなに本が多いとどうすればいいのか途方にくれるのではないだろうか。と思ったのも、わたしが今日書店をまわったときに「ああ、これ前から読みたかった本だ」「この作家は前に読んでとてもよかった人だ」「これは誰それがとてもいいと言っていた作品だ」というひっかかりを覚えた本を手に取っていることに気づいたから。つまり既視感。コマーシャルというのは既視感を作る行為なのだとしたら、非常に有用な手段だなと思う。

では既視感のない人はどう本を選ぶのか? それは「きれいだな」とか「素敵だな」とか、デザインによるところが多いのではないか。でもきれいなだけの本もあるからな。いやしかし、きれいであるということはそれだけでもう尊いのかもしれない。いやいやしかし……と考えをめぐらせながら帰途に着いた。

こんな時間は久しぶりだ。じんましんが少しましになっていた。

2019/06/22(土)

子守をしながら小説の改稿。なんとか最後まで書いて、編集者に送った。また首にじんましんができている(前回は、『経営者の孤独。』の脱稿時に出た)。
癒されたい、癒されたい、と言いながら『りぼんのふろく「カワイイ」のひみつ』と『よつばと!』を読む。すごい癒された。かわいいもの、きれいなもの、わくわくするもの、に、ただ単純に触れること。童心に帰ること。

2019/06/21(金)

朝、テレビで柳美里さんを見た。彼女は小説について、「触れてほしくない傷あとのかさぶたを剥がしてえぐりながら書く感じ」みたいなことを言っていた。わたしは、中1のときに彼女の作品を初めて読んだ。『家族の標本』。すごく衝撃を受けたのを覚えている。そのあと何冊か読み、それから『ゴールドラッシュ』を読み、辛すぎてこれ以上読めないと思い、それ以来、彼女の作品は一切読んでいない。
『ゴールドラッシュ』を書くときには、7か月間離島にひとりこもりっぱなしになって書いていたらしい。書き終えたときには、「魂をここに置き忘れてきた」と思ったのだと。
もう一度読んでみたいと思った。いまなら読めるかな。

一日、小説の改稿。汗と涙が、本当に出る。辛い。