文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2019/08/18(日)

髪を切った。もうずいぶん長いことショートヘアだ。20代前半までは肩らへんまであったけれど、いつからか俄然ショートヘア派になっていた。セミロングの女子高生の集団を見ていると、「この中でひとりショートにすれば、その子は絶対にモテるだろうな」ということを想像する。ショートであるというだけで、その娘は特別になれる。洗髪もセットも楽なのに、どうしてショートにしないのか。わたしにはわからない。そんなことを考えながら、髪を切った。また短くなった。ちなみにわたしはショートだからといってモテたことはあまりない。

2019/08/17(土)

朝から少し不安定ではあった。心に引っかかっていた原稿を手放し、それからジムに走りに行って、今大好きなNetflixの番組も観たし、できることはしたと思う。だけど夕飯時にビールを飲み始めたらだめだった。なぜだか涙が溢れてしかたなく、鶏肉を噛み締めながらぼろぼろぼろぼろ泣いた。家族が唖然としてわたしを見ており、こういうとき本当にこの人たちは優しいと思うのだが、「どうしたの」「大丈夫?」と控えめに聞いてくれた。すぐに食べ終わり、食卓から離れ、なおも泣いていると、長男が「僕、これから毎日ママのことをほめるわ」と言っているのが聞こえた。「悲しくならないように。それでママが笑ったら、『かんげい』しようと思う」。「かんげい」というのは「歓迎」だろうか? 次男はご飯を食べ終わると、座っているわたしの膝にどんどん自分のお気に入りのおもちゃを持ってきた。「みて」と言って、ミニカーの扉を開けて見せてくれたりする。子供たちは信じられないくらい優しい。それにひきかえ、自分は本当に穴ぼこだらけだなあと思った。泣き出したきっかけは、小松菜の胡麻和えだった。自分が二日前に作ったそれを、どうしてもおいしいと思えず「どうしてこんなにまずいんだろう」と思ったら泣けてきた。最近わたしは料理が苦痛でしかたがない。

ぼろぼろと泣き続けたら、少しすっきりした。お盆って、自分の先祖のことを考えた事がなかったなと思った。いつも誰かがその人の先祖を迎えるのを、横でぼんやり見ている。五山の送り火を見ても、自分の先祖のことではなく、先祖を迎えているらしいみんなのことを見ている。わたしはいつも部外者だった。部外者にしていたのは自分自身なのだけども。お墓がどこにあるのか、それどころかなんていう名前だったのかも、祖父母のことなのにまったく知らない。これっておかしなことだなと、今日、唐突にものすごく思った。小松菜の胡麻和えを食べながら。わたしはもう、小松菜の胡麻和えをずっと作らないと思う。

2019/08/16(金)

誕生日、34歳になった。
朝、子供たちを送り出して家を掃除する。それから夕方の6時半までずっと書いていた。書けなくなったら、読んで、それからまた書いた。でも、書いても書いてもちゃんとしたものができなくて、ちょっとがっかりした。

そうしたらウクライナから帰ってきた編集者から電話があって、少し話して、それから切ったあとにメッセージが届いた。
「土門さんは、頑張って書いてて、えらいね。書けないことにも向き合うからえらい」
褒められて嬉しかった。というよりも、ほっとした。よかった、わたしは頑張れているんだな。

34歳も、小説を書きたい。良い小説が書けるよう、できることをしたい。あんまりよそみせずに、妄想もせずに、他人の言うことに揺さぶられずに。最近全然泳ぎに行けていないから、ちゃんとスポーツもしたいな。お腹が冷えがちだから、お腹をあたためよう。買い物をするときは、良いものを買うように。その前に、今持っているものを大事にしよう。

ときどき、死に支度をしなければなと思う。どうしても余計なものが身についてしまう。いつ死んでも慌てないように、ひとつずつ整理していきたい。いらないものは捨て、大事なものは大事にし、欲しいものはちゃんと手に入れておく。
多分人生は思っているよりも短い。ちゃんと自覚しておかなくては。

2019/08/15(木)

33歳最後の日。この1年振り返ってみれば、一回死んでもう一度生まれ変わったような感じだった。ボロボロだったのは3月と4月。こんな思いをしながら生きていくのはもう無理だと何度も思ったけれど、底まで落ちる前にいろいろな人に掬われた。『経営者の孤独。』という本は、そんな自分の経緯を書いたような本だと思う。いつか歳をとったときに読み返して、ああ、あの頃は歯をくいしばるようにして生きていたなあと思うのかもしれない。
このあいだ「土門さんが一番孤独を感じた時期はいつですか?」と聞かれ、「今です」と答えた。掬って救ってくれる人がこんなにもいて、それでも生きていくのがしんどいというのは、もう、そういうことなのだ。穴がぼっかりと空いている。そのことがくっきりとわかってしまった。それでもわたしは死ねない。死のうとする前に必ず掬われるからだ。だから孤立はしていない。孤立していないからこそ、孤独が際立つ。穴がぼっかりと空いたまま、掬われたさきの地に足をつけて立っている気分。そしてそこで、空を見上げている気分。崖のしたは黒々としているけれど、空は青々としている。そういうことに気づいた気分。穴が空いたままの、不恰好な、あわれなかたちで。
だから、今が一番、孤独を感じる。でもそれは全然、悪いものじゃない。泣きそうになるけれど、きっと幸せなんだと思う。
33年ものあいだ、よく生きてきたな。よくがんばりました。

2019/08/14(水)

土日月火と、ひとりになる時間がほとんどなく、少しずつ精神的に参ってきた。いつもどこかで声がして、矢印がこちらに向けられている。ひとりになりたいなあと思う。心が落ち着かない。心が落ち着くときなんて、そうそうないけれども。

このお盆休みにリビングの本棚を少し整理した。どうも本を読む時間が少なく、なかなか読み進められなかったけれど、今読むべき本とそうでない本は区分けできたように思う。

2019/08/13(火)

日記を書くのが滞っている。なぜなのかというと夜には体力がなくなっているからだ。書きたいときに書くものなのかもしれないな。
今日は午前中に広島から父が来た。京都駅で待ち合わせ、そのまま伊勢丹で子供のおもちゃや靴を買ってもらった。お昼ご飯は天ざるが良いというので、お蕎麦屋さんに並んでご馳走した。父は「ご馳走様でした」ととても礼儀正しくお礼を言った。いいところだなと思って見直した。別れる間際、なんどもこちらを見て、手を振っていた。そういうところは全然変わらない。

2019/08/12(月・祝)

朝、夫方の祖父母のお墓参りへ。しきみを買って、ぞうきんでお墓を拭き、お線香をあげた。わたしも祖父母のお墓参りをしていたら、少しは人生観が違ったのだろうなと思う。今度行ってみようかな。ものすごく行きにくい場所にあるけれど。
自分は死んだらどうなるんだろう、誰かがちゃんと弔ってくれるんだろうか。そのときのことがあまりちゃんと想像できない。母に海に散骨をしてほしいと言ったら怒られたけど、そんなことしたらもっと寂しくなるだろうか。

生きることが切ない。美しいものを見たり愛おしい人に出会うと涙が出そうになる。その美しいものや人とどうしてもひとつになれないことが切ないのか、いつか必ず別れが来ることが切ないのか、自分が絶対に満たされないことが切ないのか。もう死んだほうがましだと思うほどに切ない気持ちになることがあるけれど、それでもなんとか生きている。なんとか生きて、子供を育てたり、お墓をきれいにしたりしていて、まるで人真似をしているようだなと思う。人真似でもいい、死ぬよりはましだ。とにかく生きねば。
そんなことを思いながら生きてきたし、これからもきっとそうだと思う。

思いつきでNetflixに入って、「クィア・アイ」という番組を観た。なんだかじわじわと癒されるような番組だった。こんなふうに優しくなれたらいい。わたしは切ないだけで、まだ全然優しくない。