文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

「聴く」と「書く」について話した日のこと

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今年の2月、慶應義塾大学の清水唯一朗先生からメールをいただいた。

清水先生は湘南藤沢キャンパスで “オーラル・ヒストリー” を用いたゼミを開いている。そちらに毎年、「聞く」を実践してきた方を呼んでお話を聞いているとのことで、今年のゲスト講師のひとりとして、わたしにお声がけくださったのだった。
どうも、ゼミのOGの方が推薦してくださったらしい。それで清水先生が『経営者の孤独』を読み、
「土門さんがどのように『聴く』『書く』に取り組んでこられたかをお話しいただければ」
と、メールを送ってくださったのだった。

開催時期は6月。
(予定通りいけば)ちょうど『経営者の孤独』の脱稿後の時期だ。それで「ぜひ」とお返事をした。執筆が落ち着く時期だからというよりは、『経営者の孤独』を書き終えた自分がどんなことを話せるのかを知りたかったのが大きかった。そのとき自分はどんなことに気づいて、どんなふうに言語化しているんだろう。
お返事をしたものの、まずは目の前のインタビュー・執筆と格闘する日々だった。「インタビューとは何か」考える間もなく、無我夢中で聞き、書き続けた。


6月はすぐにやってきた。なんとか『経営者の孤独』を脱稿し、ほっとしたのもつかの間、数日後にはゼミでの講義が控えている。ここでやっと、どうしよう、と途方に暮れた。講義ってどうやるんだろう。これまでにライティングの講義を一度だけ行ったことがあるが、それとは形式が違う。それに、今回は「書く」だけでなく「聴く」についても話すことになっている。

「『聴く』と『書く』ってなんなんだろう?」
改めてパソコンの前でじっと考えたが、よくわからない。考えると、頭の中で大きな波がぶわあっとうずまく感じがする。これを受講生の皆さんにどのようにして伝えようというのか。『経営者の孤独』を脱稿してもまだ、インタビューをちゃんと言語化できていないのだということに気づき、やっぱり途方に暮れた。



わたしはインタビューを勉強したことがない。
誰かに教わったこともないし、インタビューの方法について書かれた本を読んだこともない。15年のあいだ、ずっと独学(というか実践の繰り返し)でやってきた。生来、あまのじゃくなところがあるのかもしれない。自分にとって大事なことであればあるほど、勉強せずに自力でやって考えようとしてしまう。

そんな偏ったやり方でやってきた自分に、どんなことが語れるだろうという不安がまず起こった。うまくまとめられるだろうか、みんなが求めることが話せるだろうか、つまらなくて授業中に寝る子がいたらどうしよう? こんなことなら勉強しておけばよかったなぁと、本末転倒なことを考えたりもした。

だけどだんだん、「まあいいか」と思えてきた。
わたしの本業は書くことであり、教えることではない。そして清水先生も受講生のみなさんも、そこには期待していないはずだ。だったらただの「土門蘭」として、みんなと楽しく「聴く」と「書く」について話すだけでもじゅうぶんなのではないだろうか。そう考えると、「そうだそうだ、みんなと仲良くなれたらそれで100点だ」という気持ちになってきて、心が軽くなり、こわかった講義が逆に楽しみになってきた。



それでふと思いついたのが「自分にインタビューしてみてはどうか」ということだった。わたし自身が「土門蘭」という人間に、『聴く』と『書く』とはなんなのかをインタビューするのだ。自分のことを伝えようとするからわからなくなるのであって、自分を他人だと思い聞き出せば、うまく言語化できるのかもしれない。それで、「土門蘭」に対してさまざまなインタビューを行った。

「土門さんは、いつからインタビューを始めたのですか」
「なぜインタビューをしようと思ったのですか」
「インタビューをするときに気をつけていることはなんですか」

それに対する答えを書きながら、「ああ、インタビューって、具体と抽象の間を行き来することなのかもしれないな」とぼんやり思った。
具体を並べ、少しずつ掘っていくことで、その奥にある源流のようなもの(つまり抽象)に触れようとする。これが「聴く」。そして到達した抽象から、再び具体に再構築する。これが「書く」。
いままでは無意識にそういうことをしていたが、自分にインタビューをしようとすることで、初めてそのことに気がついた。

それならば、この「聴く」と「書く」の流れを見せることで、講義ができるかもしれないと思った。つまり、「講義の作り方は、インタビュー記事の作り方と似ているのかもしれない」と。そのアイデアが浮かんだとき、「あ、できるかも」と思った。

それからわたしは「聴く」と「書く」における「セブンルール」をつくることにした。
たとえば、インタビュー前にやること、当日の服装、メモの取り方、テープ起こしのやり方など、手順にそって大事にしていることを7つ書き出す。その7つの具体的なルールから、わたしにとっての「『聴く』『書く』とは何か」という抽象を浮かび上がらせる。

資料は余白たっぷりに作った。メモも書いたけれど、
「あとはその場で言葉にしよう」
と思った。受講生のみなさんの表情や反応を見ながら、リアルタイムで言葉を発していけばいい。なぜならわたしの最大の目的は、彼らと仲良く話すことだからだ。
これもインタビューと同じだと思った。インタビューも、絶対に必要な仮説と質問だけを携え、あとは相手への敬意とその場の空気感を大事にしながら話すのが良いと思っている。講義とインタビューは似ているのかもしれない。インタビューの対象が相手であるか、自分であるかの違いはあれど。そんなことを思いながら、当日を迎えた。



結論から言うと、学生のみなさんはひとりも寝なかった。
拍手で迎えてくれたあとは、みんなこちらをじっと見て、耳を傾け、メモをとる。すごく熱心で、わたしの話すことをぐいぐいと吸い込んでいくみたいだった。

講義を60分行ったあとには、30分の質疑応答と、120分のディスカッションがあった。たっぷり時間があったにも関わらず、質問がとどまることなく出た。みんな聞きたいことや話したいことがあるという顔をしていた。それは普段から、ちゃんと考えているということなのだと思う。自分にとって「聴く」「書く」ってなんだろう。そういうことを彼らはきっと、普段から考えているのだろうなと思った。



ある男の子はこんなことを言った。
「土門さんはインタビュー内でも記事中でも、相手に対しご自分の考えを多く語られていますが、それをこわいと思うことはないですか。自分はそれで相手の方が気分を害されないかこわくて、主観をなかなか語れません」

ある女の子はこんなことを言った。
「土門さんは相手の方の『孤独』について聴くことで、自分自身の『寂しさ』や『孤独』も表出することを、こわいと思うことはないですか。わたしは今インタビューをしていてその状態になっていて、しんどいなと思うことがあります」

わたしはどちらの質問にも、
「わたしも、こわいです」
と答えた。

だけど、こわくても信じるしかないのだ。
信じれば相手も信じてくれるし、大事なことがわかる日も来る。そうわたしは信じている。だから、そうしようと日々もがいている。

「実は、ここに来るのもこわかったんですよ。話がつまんなくって寝られちゃったらどうしようって。だけど今日は、わたしからみなさんに心を開こうって決めて、ここに来ました」

自分自身が心を開かないで、他人が心を開くわけがない。
自分自身が揺さぶられないインタビューが、他人を揺さぶるわけがない。
心を開くことも、心を揺さぶられることも、とてもこわいことだ。だから「こわい」と感じることは、間違っていない方向に進んでいるということなんだと思います、と、わたしは話した。

最後の最後まで、質問はとめどなく続いた。自分の思いや感情を伝えながら、わたしのことを知ろうとしてくれる受講生の皆さんに、なんだかわたしは胸がいっぱいになってしまった。
授業が終わりに近づいたころ、自分が目の前の受講生のみなさんに何を言いたかったのか、ようやくわかった気がした。

「誰のためでもなく、まずは自分のために、思い切り聞いて書けばいい」
「あなたが心を開く限り、他人も世界も、あなたに対して開いてくれる」

だって、この日わたしはあなたたち自身の「知りたい」という純粋な気持ちによって、たくさんの言葉を引き出されたのだから。
わたしが心を開いたと同時に、あなたたちも心を開いてくれたのだから。


そしてそれが、わたしにとっての「聴く」と「書く」ということだ。 

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この日出会ったゼミのみなさん、本当にありがとうございました。
みなさんの記事が読める日を、心から楽しみにしています。