文鳥社の日記

京都の出版レーベル・文鳥社の日記です。

2018/03/29(木)

わたしはお酒が大好きでもともとよく飲むのだけど、最近あまり飲まなくなった。
小説の初稿をあげるまでは願掛けでビールを絶っていて、それを解禁したら前みたいに毎日飲むかと思っていたがそんなことはなかった。
「お酒を飲みたい」という日の気分には二種類ある気がする。それは自分をねぎらいたい日と、自分をこわしたい日なのだ。
わたしには自分をこわしている時間はないと思う。できるだけ、意識を明確に保っていたい。忘れたくないこと、インプットしたいこと、そして考えたいことがたくさんあって時間が足りない。だから飲むのはねぎらいたい日だけにすることにした。そうなると、お酒を飲むと決めた日に向けてがんばることになる。思う存分、自分をねぎらうために。
この小説を書き終わるまで、それは続くのかもしれない。


宿に行くと、扉が開け放たれていて、春の風が自由に出入りしていた。
それでも宿の土間はひんやりしている。こたつには宿の主である岩崎くんと、それから小嶌さん。そして二人のスーツ姿の男性が入っていた。お二人は大津の市役所の方だということだった。
打ち合わせをしている横で一本仕事をする。話の内容がちょこちょこと耳に入ってくる。四人の話を聴きながらわたしは、彼らの子ども時代のことを考えていた。子どもの頃の彼らがここにいたら、一体どんな感じだろう。
よく考えるのだけど、政治家も教員も介護士も弁護士もシェフも公務員もみんなみんな、昔は遊んでばかりの子どもだったのだ。わたしの息子たちみたいに。子どものモチベーションはシンプルで、ほとんどが「おもしろそう」か「ほめられたい」のどちらかだと思う。でも、大人になってもだいたいそんなものなんではないかと思っていて、時々、この世は大きくなった子どもがまわしているんだなあと思う。そしてそれを自覚しているけれど黙っているひとが、わたしのまわりにはきっと相当数いる。

わたしは文章をぱちぱちキーボードでつくりながら、自分も子どもになった気持ちでそこにいた。みんなの話を聴きながら、幼いわたしが文章を書いている。もうすぐ4月のひだまりのなか。
外を子どもたちが通って、そのうちのひとりが
「ほしいおもちゃがあんねん!」
と大きな声で言った。


通りをいったん通り過ぎた男の人が戻ってきて、中に入ってきた。
「おー」
と岩崎くんが言って迎え入れる。
マスクをしている彼は会釈をしてから静かに二階を見てまわり、それから壁のコラムなんかも読んでいたようだ。そのあいだわたしはすっかり仕事に没頭してしまって、後ろに彼が戻ってきたことに気がつかなかった。彼はわたしの作ったフリーペーパーと歌集を手にして立っていた。
「サイン書いてもらったら?」
と岩崎くんが言い、彼はマスクの奥で「ぜひ」と言った。
彼は大学院を辞め、4月からウェブ制作の会社で働くらしい。それで、門出にふさわしい短歌を贈ろうと、収録していない歌を一首選んで本に書いた。彼は喜んで受け取ってくれた。こういうことができるようになったのは、短歌というものをわたしが詠み始めたからで、それは単純に自分の幅の広がりを感じる嬉しいことだなと思う。

それから八清の西村さんが来られたので、挨拶をする。お父さんが同じ会社の社長なのだというお話を聞いて、やはりわたしは子どものころの彼を想像した。どんな子どもだったのだろう。子どものころに出会っていたら、わたしたちは友達になっただろうか。

初めて会う方が多いのでこんなことを考えるのだろうか。

この宿には本当にいろんな方が現れる。
「昔文豪は宿に篭って作品を書いていたそうで、それが現代だったらどんな感じなのかなっていうのが、僕の個人的に興味があるところで」
と岩崎くんが西村さんにこの企画の意図を説明してくれているのを聴きながら、
「もしかして昔もこんな感じだったのかもな」
とふと思う。部屋に閉じこもっていない時間は、こんな感じだったのかもしれない。


小嶌さんが
「よかったらみんなで食べて」
とおいしそうな缶詰をくれた。
「昨日の花見の残りのワインがあるけど飲む?」
と岩崎くんが言う。しまちゃんが缶詰を湯煎し、グラスを用意してくれる。
岩崎くんが昨日の花見でしまちゃんが酔っ払って寝てしまって「かわいいおっちゃんみたい」に眼鏡がずれてちょっと口を空けている写真を見せてくれた。
「冗談で一升瓶抱かせようかと思ったら起きちゃった」
と岩崎くんが言い、しまちゃんがキッチンで笑う。小嶌さんが伸びをして、
「眠くてしかたないんです」
と言って、こたつの中にしばしの間寝そべった。

この光景はいいな、と思う。
この滞在でしか出会えない風景、言葉、関係。
そこに自分も溶け込んでみたくて、わたしもほんの一口だけご相伴に預かることにした。
久しぶりに飲んだお酒は、わたしのからだをすこし柔らかくした。



労働のあとのあなたは満ち足りて煙と脂のにおいを吸い込む


今日、マスクをしていた彼に贈った短歌を思い出しながら、グラスを洗ってわたしは宿を後にする。